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津地方裁判所四日市支部 昭和50年(わ)110号 決定

本籍 名古屋市中区三之丸二丁目三二番地

住居 四日市市室山町六番地

不動産周旋業

古嶋善一郎

大正一五年四月二二日生

右の者に対する頭書被告事件につき、検察官より、第二九回公判において証拠調請求にかかる同公判検察官請求証拠目録55(以下これを単に55というように略記する。)、56、第三〇回公判において証拠調請求にかかる第二回公判検察官請求証拠目録(一)31(以下これを単に(一)31というように略記する。)ないし33、113ないし136および第三一回公判において証拠調請求にかかる同公判検察官請求証拠目録4(以下これを単に4というように略記する。)各記載の書証について、当裁判所は、弁護人の意見を聴いたうえ、つぎのとおり決定する。

主文

本件各書証の取調請求をいずれも却下する。

理由

第一、当事者の主張

一、本件各書証の証拠能力についての弁護人の意見の要旨は、捜査当局は、本件強盗殺人事件を捜査中、被告人に軽微な詐欺の嫌疑のあることが判明するや、右の詐欺被疑事件(以下別件という。)に藉口して、罪質も異り、これと何らの関連性もなく、被告人の嫌疑を窺わせる何らの資料もない本件強盗殺人被疑事件(以下本件という。)について被告人を取調べ、専らその自白を得る目的で、被告人を逮捕、勾留し、現に別件を利用して連日長時間に亘って、強制、利益誘導、詐言による取調べをなしたものであり、右はいわゆる違法な別件逮捕、勾留にあたるから、別件勾留中に作成された被告人の供述調書はもとより、これを前提としてなされた本件逮捕勾留中に作成された右の余の本件各書証も、違法収集証拠として、その証拠能力を否定されるべきであり、然らずとしても右取調の態様および本件各書証の内容に鑑みれば任意性を欠くものであるというにある。

二、これに対し、検察官の主張の要旨は、被告人が当初逮捕勾留された市川辰代に対する詐欺の被疑事実は、それ自体相当重要な事案であって、軽い被疑事実に藉口して本件強盗殺人事件につき被告人の取調べをなす目的で、無理に立件したものではなく、勾留の理由および必要性も存したのであり、また右の身柄拘束期間中に、嫌疑の存在した右強盗殺人事件について被告人の取調べがなされているが、その間専ら右取調べに終始したものではなく、取調時間も四〇時間余にとどまる程度のものであるから、結局右事件につき右の程度被告人を取調べたことも違法ではなく、さらに捜査官は、弁護人が主張するような方法をもって被告人に対して自白を強要した事実はなく、その他その供述の任意性を疑わせる事情は全く見当らないというのである。

第二、当裁判所の認定した事実

一件記録によれば以下の各事実が認められる。

一、本件強盗殺人事件の発生

1、捜査の端緒

昭和五〇年四月二日午前一一時一五分ころ、四日市市室山町三四〇番地所在笹野千代方前通称日永・宮妻線道路上(以下単に第二現場という。)において、通行人および同所より約三三・三メートル東方の同道路沿いにある四日市南警察署(以下単に南署という。)室山警察官駐在所(以下単に駐在所という。)警察官により、駐車中の軽四輪貨物自動車(以下単に本件車両という。)から男の変死体が発見され、その身元が四日市市堂ヶ山町一一三〇番地に居住する青果商米川誠郎(当時四八才)であることが判明した。

右連絡を受けた南署から多数の捜査員が第二現場に派遣されて証拠収集と保全に着手したが、第二現場の状況は次のとおりであった。

(一) 米川の死体は、本件車両助手席前の空間にうつ伏せとなり、同席側扉の下方に接して頭を折り、臀部はチェンジレバーを押しつける姿勢で押し込まれ、全身には鋭利な刃物によるものとみられる防禦創を含む多数の刺切創があった。

(二) 本件車両内には死体のあった位置を中心に多量の血液が流出しており、前面ガラス左下方、助手席側扉内張り、同席前方の足下の側板、その下方の床面に敷かれたマット、運転席側扉の内側に、多数血液が飛散流下したとみられる血液痕と粟粒から小豆大の血液飛沫痕が付着し、アシスタントレバー、チェンジレバー、ハンドル、助手席側サイドミラー等に多数、刃物による傷跡が残されていた。本件車両の運転席と助手席には表面がかなりしわになった座布団が整然と敷かれ、助手席上の座布団上の中央やや前方に米川が生前使用していた鞄が、これも整然と置かれ、右両席の座布団の間には、ハイライト一箱、マッチ箱一個が、助手席側座布団上にはチェリーとハイライト各一箱が、助手席左端部にはメガネケース一個が雑然と置かれており、座席背もたれのほぼ中央部から右両席中間部に置かれた前記ハイライト一箱および運転席側座布団の下方に至る間に足跡痕(以下単に本件足跡痕という。)が遺留され、車内から指紋も顕出された。

(三) そのほか、本件車両内からは、助手席側扉内張りのポケット内より株式会社大和銀行四日市支店の名称のある袋に入った現金九〇万円が、灰皿よりミスタースリムの吸殻二本が、運転席足元より同一本が、サイドボード内より佐藤紙器振出しの額面金七五万円の約束手形一通が発見されたほか、各所から多数の物件が発見され、また米川の死体を本件車両から搬出する際にはそのジャンパー付近から新しいミスタースリムが一本落下するのが発見され、同死体の見分時にはその右拇指爪先端から毛髪一本が発見された。

2、捜査本部の設置

南署内には、直ちに三重県警察本部捜査第一課より捜査員約七名の応援を得て本件の捜査本部(以下単に本部という。)が設置され、本部長には南署々長があてられたが、同課々長補佐木田警部が本部の捜査活動の具体的指揮をとり、その下に編成された六係についても四係までの係長を岡藤英警部補ほかの同課所属警察官で占める体制がとられた。

3、米川の死因他

米川の死体は、同月三日午前九時三五分から三重大学医学部法医解剖室において、医師羽場喬一により解剖に付された結果、創傷は全二九個に及び顔面六個、右頸部一個、前胸部三個、右側胸部五個、背部右側九個、左手部二個、右手部一個、左右足関節各一個であり、そのうち左乳頭下部周辺に存する刺創は一個のみで、創洞は上後方に向って、長さ約六・五センチメートルに及び、左第四、第五肋骨の各一部を切截し、右心室腔内に達するものであり(なお米川の死体には他に心臓部を損傷する創傷は存しない。)、死因は胸腹部および背部刺切創および刺創による心臓並右肺創傷部より血液を迸出逸出したことによる失血死であること並びに米川の血液型はBMN型であることが判明し、死亡時間は二日内外の昼前であり、兇器は巾二センチメートル、棟の厚さ〇・一ないし〇・二センチメートル、長さ約一〇センチメートル内外の尖鋭々利な刃器と各推定された。

さらに前記ミスタースリムの吸殻については、同月五日三重県警察本部刑事部鑑識課(以下単に鑑識課という。)により血液型の鑑定が行われ、B型かつ分離型であることが判明した。

二、初動捜査の経緯

1、本件における初動捜査は、米川の足どりと第二現場付近住民からの聞込みおよび米川と生前関係のあったと見られる者に対する身辺捜査に向けられていた、なお、本件車両内および米川の死体からそれぞれ発見された本件足跡、指紋、毛髪および多数の証拠物に関する捜査の経緯は、一切不明である。

2、足どり捜査の結果判明した米川の行動は、昭和五〇年三月三一日午前九時過ぎ頃自宅を出、午前九時三〇分頃、四日市市内近畿日本鉄道四日市駅(以下単に四日市駅という。)所在の株式会社百五銀行西支店において、前記本件車両内から発見された約束手形の割引方を依頼したがこれを拒絶され、その後本件車両にて午前一〇時ころ、同市浜田五番二八号所在株式会社大和銀行四日市支店(以下単に四日市支店という。)を訪れて同支店駐車場内裏出入口付近に駐車したうえ、同支店内で現金九〇万円の払戻手続をなし、午前一〇時二〇分ころ一旦同支店内から姿を消していたが、その後現金を受領し、同日午前一一時前ころ同市沖の島町一番六号所在の百五銀行沖の島支店(以下単に沖の島支店という。)を訪れ、現金八五万円の預金払戻しの手続をなし、同一一時二〇分ころ一万円札八〇枚、千円札五〇枚を受領し、以後所在不明となったというものであり、その結果捜査本部は、本件を犯人が米川を殺害して右現金八五万円を強取した強盗殺人事件と判断した。

3、他方、第二現場付近住民からの聞込み捜査の結果、本件車両が前同日午前一一時四五分以降第二現場に駐車していることが判明したほかは、本件犯行の目撃者など犯人と結びつく有力な手掛りはなんら得られなかった。

4、本部では、米川の生前に同人とつながりのあった者として数百名をリストアップし、それぞれにつき身辺捜査を開始し、特に前同月一〇日ころからは前記約束手形の振出人について鋭意捜査がなされ、更に同月下旬ころよりかつて第二現場付近に居住して当時所在不明となっていた者につきその所在捜査がなされたが、前者についてはアリバイが成立し、後者については既に暴力的団体構成員三名により殺害されていることが判明し、結局本件強盗殺人事件の捜査は一向に進展しなかった。

三、被告人が市川辰代に対する詐欺被疑事件で逮捕、勾留されるに至った経緯

1、被告人の逮捕に至る経緯

(一) 本部は、米川の自宅から不動産周旋業Aの名刺が発見され、同人がいわゆる不良不動産屋グループの一員と目されていたことから、同人および同人と親交のある者の身辺捜査をなした結果、B、Cらの外、被告人の名も挙がり、これらの者が本件強盗殺人事件発生当時いずれも金銭に窮していたこと等を理由に同事件の有力な容疑者と判断し、このうちA、Bおよび被告人については、それぞれ詐欺事件の容疑が判明したことから、これらの容疑で逮捕し、本件強盗殺人事件についても取調べをなす方針が決定された。

(二) 本部は、昭和五〇年六月九日午前八時三〇分ころ右Aを右詐欺容疑により通常逮捕して、直ちに南署に引致し、同日午前中は右容疑につき取調べをなしたほか、勾留期間を通じて専ら本件強盗殺人被疑事件につき取調べを行い、一時は強く自白を求めたが、Aは終始否認を続けたもので、この状態は被告人が本件につき全面自白をなした同月一七日まで続いたが、同月一八日には四日市北警察署に移監し、以後厳しい取調べはなされなかったものの、Aは、勾留延長をされたうえ、その延長期間満了日に至って前記詐欺容疑につき起訴猶予処分となり釈放された。

なおこのころ、Bについても前記詐欺容疑により通常逮捕がなされた。

(三) 本部は、被告人には前記のとおり米川と面識があったと見られるAと親しいこと、本件強盗殺人事件当時金銭に窮していたことのほか、第二現場から徒歩五分内外の所に住所があること、ならびに被告人は同年四月二三日自宅を訪れた本部捜査員に対し、自分の手帳(以下単に手帳という。)を示したうえ、右事件当日午前中の行動を供述していたが、被告人に対する身辺捜査の結果右アリバイが成立しないとの確信を持ち、手帳にも何らかの工作がなされた疑いが生じたことから、本件強盗殺人事件の有力容疑者と判断したのであるが、本部捜査員において判明したところの被告人が昭和四九年一〇月一四日市川辰代に対し、不動産売買の手金に使用したいが、二週間後には金二〇万円の謝礼を添えて返済すると欺罔し、額面金五〇万円の小切手一通を騙取したとの容疑につき、同五〇年六月三日ころから同月一〇日までの間前後三回に亘り、右市川を訪問し、被害届の提出方を強く求め、同日には渋る同女に対し、「古嶋さんはどうしても返せるあてがないんやから、お宅だまされているんやから、お宅協力してくれ。堂ヶ山の件調べたら上手にいくんやけど。」等と申し向けて、遂に承諾を得るや、直ちに本部捜査員の代筆により被害届と証拠書類の任意提出書が作成されたうえ、同女の司法警察員に対する供述調書(以下司法警察員に対する供述調書を員面調書という。)も作成され、更に同日中に右小切手換金の事実につき並木冨一の員面調書、登記簿謄本、右別件の捜査の端緒に関する捜査報告書(その内容は右認定の事実と明らかに反するものである。)等の証拠書類が作成され、本部は、同日午後六時二〇分これらの証拠を添付して四日市簡易裁判所に対し、別件につき通常逮捕状の請求をなし、その発布を受けた。

2、別件逮捕、勾留の経緯と別件についての被告人の取調べの状況

(一) 概況

前同月一一日午前八時三五分ころ、岡警部補以下数名の捜査員が被告人方を訪れ、被告人に対し右逮捕状を執行したうえ、被告人方の捜索に着手し、別件についての証拠物は何ら押収されなかったが、下駄箱内にあった被告人の黒皮製短靴(以下単に黒靴という。)を被告人の妻古嶋正子から任意提出を受けてこれを領置し、なお本部捜査員は同日午前八時五七分ころ被告人を四日市南警察署に引致し、そのころ被告人から手帳の任意提出を受けてこれを領置した。

被告人は同日午後六時三五分ころまでの間、別件につき本部捜査員の取調べを受け、その容疑を認めたうえ併せて川喜田良一らに対する詐欺、有印私文書偽造、同行使事件も自白し、これらは被告人の同日付員面調書に録取されたが全九丁の極めて簡単な調書で別件に関する部分は僅か一丁半に過ぎないものであり、被告人は、同日午後七時五分ころ、当時南署内にAが勾留されていたという理由で、桑名警察署に身柄を留置された。

本部捜査員は、翌一二日午後一時二〇分ころ、被告人を津地方検察庁四日市支部に送致し、同庁検察官は直ちに四日市簡易裁判所に対し、別件につき勾留請求をなして勾留状(勾留場所桑名警察署代用監獄)の発布を受け、同日午後三時一〇分被告人に対して勾留状の執行がなされた。

各本部捜査員らにより、同月一三日午前一〇時二五分ころから午後七時ころまで、別件につき被告人の取調べが行われて詳細な内容の員面調書一通が作成され、翌一四日午前一一時一五分ころから午後零時ころまで、被告人において任意自白した益川文一に対する詐欺事件の取調べが行われて自白調書一通が作成された。

(二) 取調べの状況

右の本部捜査員らによる被告人の取調べは、南署三階の刑事取調室で行われたが、同室は広さ三畳ないし六畳、室内には中央の机を隔てて取調官と被疑者用の各椅子が置かれているもので、取調べには南春一巡査部長および庄田巧巡査部長ら二名一組であたった。

3、別件勾留中の被告人に対する本件についての取調べの状況

(一) 概況

(1) 本部は、前同月一二日三重県警察本部鑑識課技術吏員城卜一に対し、黒靴と本件足跡との異同につき鑑定を嘱託したところ、翌一三日までには、同人から本件足跡は黒靴で印象されたとみても矛盾はない旨の第一報を受け、また手帳の四月三日欄には、その日に手帳を書き直した旨の記載が存したこと等から、被告人を前記数百名の者の中で最後に残った最有力容疑者であると判断し、なお逮捕、勾留中の被疑者に対して、身柄拘束の基礎となった被疑事実に関する取調が終了した後は、逮捕状発布を得るに足る疎明資料の存しない余罪を含めて、余罪全般につき当該被疑者を取調べても適法であり、被疑者には取調受忍義務があるとの見解を有していたため、同年六月一三日、別件ならびに川喜田良一に対する詐欺、有印私文書偽造、同行使、益川文一に対する詐欺各被疑事件(以下これらを総称して単に余罪という。)の取調べが一応完了する翌同月一四日をもって、本件につき被告人の取調べを開始することを決め、同日午後一時ころから被告人に対し、事前の予告も、したがってその承諾を得ることもないまま、南署内四階の三重県警察本部刑事部鑑識課の研究室において、本件に関するポリグラフ検査を実施した。右検査は同課技術吏員岩尾常也他一名により同日午後四時ころまでの間行われたが、全問に亘って判定可能な程度の反応は現れず、判定不能との結果(第二三、第二五回公判調書中の証人岩尾常也の供述部分を仔細に検討しても、これが判定困難を意味するのか、陰性判定を意味するのか判然としない。)が出た。なお右検査に使用された緊張最高点質問法による問題の中には、本件強盗殺人事件の物である金八五万円の金種に関する問題も含まれており、これは、(イ)全部一万円札(ロ)五〇万円が一万円札で三五万円が千円札(ハ)八〇万円が一万円札で五万円が新しい千円札(ニ)全部新しい一万円札(ホ)全部千円札であったかどうかを問うものであった。右検査結果はそのころ本部捜査員らに連絡された。

(2) 本部捜査員らは同日午後五時三〇分ころ、被告人に対し、本件につき取調べる旨および供述拒否権の各告知をなしたうえ、本件についての取調べを開始し、以後別件勾留中に本件につき被告人が本部捜査員らにより取調べられたのは、同日午後一一時一〇分ころまで、同月一五日午後〇時五分ころから午後一一時ころまで、同月一六日午前一〇時五五分ころから午後一〇時五五分ころまで、同月一七日午後六時四〇分ころから翌同月一八日午前零時ころまで、同月一八日午前一一時三五分ころから午後一〇時四五分ころまで、同月一九日午前一〇時四〇分ころから、午後九時四〇分ころまで、同月二〇日午前一〇時四〇分ころから午後一一時ころまで、同月二一日午前一〇時ころから、午前一一時五〇分ころまでの間であり、同日の取調べを除き被告人は終始南署で取調べを受けたもので、そのための押送時間は片道約三〇分であった。

他方本部捜査員らの被告人に対する本件以外の取調べは、同月一七日午前一〇時七分ころから午後四時三〇分ころまでの間に行われた川喜田に対する余罪の取調べ一回のみであった。

この間被告人は、同月二一日午前中の取調べを除き、終始南署内で取調べを受けたもので、そのための押送時間は片道約三〇分であり、なお被告人は概ね午前六時ころから七時ころまでの間に起床を命ぜられており、なお、取調中被告人に与えられた休憩時間は昼食時に一時間一〇分までの、夕食時に二時間までの時間および用便、湯茶を飲む際の僅かな時間にとどまった。

(3) 被告人は、当初頑強に本件を否認していたところ、同月一四日午後一一時前頃になって、本件の具体的事実関係につき何ら触れることのないまま、「明日話します。今日はこれで休ませて下さい。」と述べるに至ったが、その際被告人の態度には特段の変化はなく、必ずしも自白意思に基くものとは認められず、果して翌同月一五日の取調開始後も本件を否認し、ようやく同日午後二時三〇分ころから本件犯行の動機、経緯等につき自白を始めたものの、四日市支店から直ちに第二現場へ向い、金九〇万円を奪ったというもので、前記認定の事実と明らかに反し、本部捜査員から追求を受け、物の金種につき発問がなされるまでに至ったが、これについての供述もまた事実に反しており、(本部捜査員らもこれを明らかに虚偽の自白と理解していた。)結局、間もなく一転して否認に変り、同月一六日にも取調べは一向に進展した形跡がないところ、同月一七日に自白を開始し、同日本件に関する最初の員面調書((一)113、以下第一調書という。)が作成され、なおこの時の被告人の態度につき、第二七、二八、三〇、三一回公判調書中の証人岡藤英の各供述部分(以下単に岡証言という。)によれば、「私は約二〇分遅れて調べ室に入ったところ、木田が『古嶋が今から話をすると言っているので一緒に聞こうやないか。』とのことで、そういう雰囲気だったのでやや紅潮した真剣な表情であったと記憶しております。姿勢はいつもと同じで壁にもたれて足を投げ出していた。」というのであり、第二三、二四、二六、二七回公判調書中の証人木田肇の供述部分(以下単に木田証言という。)によれば、「仏さんに対し謝りなさいと言われて正座して頭を下げた。」というのである(なお岡証言によれば、同日被告人は取調開始後間もなく自白を開始したというのであるが、同証言はさらに調書録取を開始したのは同日午後八時ころからであるというものであり、第一調書録取後特段の取調べが引続いて行われた形跡は窺えないところ、同調書は、僅か全一一丁の簡単な調書であること、前記認定の同日の取調時間を合わせ考えれば、右被告人が取調べ開始後間もなく自白を開始した旨の証言部分はにわかに措信できない。)。同月一八日、一九日の取調状況は明らかではないが、同日、後に作成された自白調書に添付された被告人作成名義の図面三葉が作成されており、さらに同月二〇日にも員面調書一通((一)114以下第二調書という。)が作成された。

なお前記同月一七日の川喜田に対する余罪についての取調時に、その自白を内容とする員面調書一通が作成された。

(二) 取調べの状況

(1) この間の本部捜査員らによる被告人の取調べは、南署四階機動捜査隊仮眠室で行われたが、同室は南北に約四・四メートル、東西に約三・三メートルの一二畳敷の和室で、西側の押入れの南端に出入口が、北側の壁の中央部高さ約〇・七一メートルの所に縦約〇・九六メートル、横約一・八メートルの不透明のガラスの入った窓が、東側の壁の西寄り高さ〇・七三メートルの所に縦〇・九八メートル、横一・四四メートルの厚い不透明ガラスの入った明り採りがあるところ、北側の窓は第二ないし第五取調室に至る廊下に、東壁の明り採りは階段に各面し、同室は外界と全く隔絶され、常時天井中央部の螢光灯が点灯され、なお薄暗い陰気な印象を免れ難い部屋で、被告人の取調べには、木田警部、岡警部補、南巡査部長および池村公嘉巡査部長あるいは片出慶次巡査部長ら常時四名以上であたり、なおその際、木田警部および岡警部補が被告人に発問し、南巡査部長が被告人の世話を焼き、池村巡査部長あるいは片出巡査部長がメモを取るとの分担が決められていた。

(2) 取調時には、被告人を北側の壁に接して座らせ、その前方に岡警部補が、左前方に木田警部が、それぞれの顔が被告人の顔と一メートル隔てる程度の距離に、南巡査部長が被告人の右方約二メートルの地点にそれぞれ座り、前記押入れの前に座卓が一脚置かれ、その東側あるいは西側に前記メモ係の本部捜査員が座るという位置関係であった。

(3) 取調べの具体的な内容については、木田証言、岡証言と、第一一回ないし一六回公判調書中の被告人の各供述部分との間には大きな齟齬が存するのであり、右各証言は、いずれも前後に矛盾するほかその相互間および前記認定のAの取調状況に関し、第一七、一九回公判調書中の証人Aの各供述部分との間にも齟齬が存するもので(なおA証人は検察官から被告人のいわゆるアリバイ崩しの証人として申請され、供述内容において被告人を殊更にかばおうとする態度は些かも窺われないこと等の諸点が指摘でき、右の点に関する供述部分は十分措信できるというべきである。)、その証拠価値が大きいものとは認め難いが、右各証言によってもなお認め得る事実は次のとおりである。被告人に対する取調べは、前記認定の各食事の際の休憩時間と、用便、湯茶を飲む際の僅かな休憩時間を除く外は連続して行われており、後記認定の身体障害を有する被告人から、膝等が痛い旨の訴えのなされることもあり、取調官においては同年六月一四日迄の間に既に右障害があることについて熟知するところであったが、当初から足を伸ばし取調室内の壁にもたれ、腰の後に座布団を当てることが許されていた(後記認定のとおり、壁にもたれなければ被告人はごく短時間しか座れないのであり、腰の後の座布団も被告人の身体の障害のため、必要となるものであるばかりか、これによって被告人の疲労や苦痛が現実にどの程度軽減されたのか疑わしいところである。)ほかは、取調中に被告人が体を横たえる等の楽な姿勢を採ることは許されなかったうえ、被告人の苦痛を軽減するための配慮がなされた形跡はなく、また前同月一七日に至るまでの間、被害者米川の写真が何回か示されており、被告人が否認している間は、(イ)被告人の本件強盗殺人事件当日のアリバイ、(ロ)同日被告人が履いていた靴の特定、(ハ)被告人の金銭出入りの状況について終始追求がなされたが、(取調官は、右(イ)については、被告人が前同年四月二三日以来一貫してなしてきたアリバイの主張につき、これが虚偽であると、右(ロ)については黒靴であると各判断していたもので、右(ハ)については、後に指摘するとおり、比較的早い時期に作成された被告人の員面調書に記載された本件の動機形成原因事実たる借財については、取調べの度に供述が変遷していること、第二回公判において検察官から被告人の金銭出入状況に関する自白を裏付けるものとして、第二九、三〇回公判において検察官から本件捜査の経過を立証するものとして各申請され、当裁判所で取調べた各書証の内容と作成日付によれば、この点に関する緻密な裏付捜査がこの時期に何ら行われていないことは明白であり、してみると前記の被告人が金銭に窮していたとの捜査結果に基づき、本件の動機形成原因事実があるに違いないとの予断の下での追求とみるほかなく、この期間を通じて、被告人と犯人とを結びつける証拠は何一つとして存在しなかったことを併せ考えれば、結局右(イ)ないし(ハ)の追求に終始していたこと自体から、被告人に対して単に自白を強要するのみの取調べ内容であったと疑う余地も存するところである。)、その際、捜査結果と本人の供述が矛盾し、捜査官にとって被告人の供述内容が非常にもの分りが悪いと思われる場合には、「話がわからん人だな。」とやかましく申し向けられ、また捜査官から「遺留足跡とあんたの靴は非常によく似ている。」とか、「やってしまったことは仕方がないから話をしなさい。」とも申し向けられ、なお取調官は取調べだからきつい言葉も言わなければとの考えを持って被告人の取調べに臨んでおり、そうした取調時および被告人が沈黙した場合には、木田において被告人の肩に手を掛けてゆすることもあった。

(4) 発熱等

被告人は、昭和五〇年六月二一日午後七時ころから、四日市市内の橋本外科病院において、微熱と倦怠感を理由に医師橋本泰の診断を受け感冒および疲労との診断を受けて筋注および静注の施行を受けたものであるが、それまでの間にも被告人は取調べ官に対して、不眠や食欲不振を訴えたことがある。

4、被告人の身体の障害

(一) 被告人は、昭和二五年ころ第四腰椎カリエス等を患い、その後四日市市内所在の同市市立病院に入院して骨移植を伴う手術を受けたもので、右疾病および手術等の後遺症として、現在腰椎部の可動性は殆んど認められず、前屈が著明に制限されており、また右股関節の屈曲も自動的に三五度、他動的に四五度に各制限され、なお右膝関節の屈曲も一三〇度に制限されている。

(二) 右身体の障害のため、被告人はあぐらをかくことは不可能であり、正座をしても腰椎部の可動性が殆んどないことから右膝関節の可動限界に達して、踵部と臀部とが離れ、痛みを伴ううえ一〇分間程度しか継続できず、それ以上継続する場合には膝頭、腰部さらには背筋に激痛を覚え、また右股関節の可動制限のため、右足を引き寄せて座ることも不可能であり、結局被告人が畳の上に座る場合には右の正座によらない場合には、両足を前方に伸ばすか、右足は前方に伸ばしたまま左足のみを曲げるかのいずれかしかなく、しかもその場合にあっても腰椎部の可動性が殆んどないために上体の姿勢も制約され、通常人に比し疲労度は相当大きく長時間座ると腰の痛みや足のしびれを伴い、またこの場合の上体の姿勢は後傾姿勢であり、壁にもたれるか腕を用いるかして上体を支えねばならず、壁にもたれるにしても、畳の上に座るため、臀部が次第に前方に移動してはまた座り直す動作を繰り返すことを余儀なくされるものである。

なお被告人が背もたれのある椅子に座る場合には、前記身体障害の影響を大きく受けることはない。

四、本件についての被告人の逮捕、勾留と、被告人に対する取調べの状況

1、本件逮捕、勾留の経緯

(一) 本部は、昭和五〇年六月一八日、被告人と本件の犯人とを結びつける唯一の証拠たる第一調書およびその余の書証を添付して、四日市簡易裁判所に対し、逮捕状の請求をなし、同日その発布を得ていたが、別件の勾留期間の満了日たる同月二一日に至り、同日午後零時一〇分ころ、桑名警察署内でこれを執行し、同日午後零時四〇分頃南署に引致し、同月二三日午前一一時ころ被告人の身柄を津地方検察庁四日市支部に送致し、同庁検察官は翌二四日四日市簡易裁判所に対し、「刑事訴訟法六〇条一項二、三号該当」との理由で勾留請求を、「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由がある。」との理由で接見と書類授受の禁止を求める請求をそれぞれなして、勾留状(勾留場所、南署代用監獄)の発布と右接見等禁止決定を得、同日午前一一時一〇分ころ、右勾留状を被告人に対して執行したうえ、同日午後零時三〇分ころ、南署内に引致し、さらに同年七月三日午前一時二〇分ころ、同裁判所に対し、「本件は重大事犯であり、被疑者は自供と否認を繰り返しているもので更に取調べの要あり、足跡の鑑定、指紋照会の結果に相当日数を要し、兇器の発見、犯行状況の実況見分等の事項につき捜査未了。」を理由として、同月四日から一〇日間の勾留延長請求をなし、その許可を得、同月一二日に至って被告人を本件ならびに別件および前記川喜田に対する余罪について津地方裁判所四日市支部に起訴をなした。

(二) 弁護人選任

被告人は、同年六月二〇日、弁護士小出正夫を自己の弁護人に選任し、同日接見がなされているが、その後は前記接見等禁止決定が出され検察官により一般的指定がなされたため、小出弁護人において被告人と面接し得たのは、昭和五〇年六月二四日午後五時二分から五時二二分まで、同月三〇日午前一〇時二〇分から一〇時四〇分まで、同年七月五日午後一時二〇分から一時四〇分まで、同月一〇日午後一一時一〇分から一一時三〇分まで、計四回延べ一時間二〇分に過ぎなかった。

2、被告人に対する取調べの状況

(一) 取調時間

(1) 本部捜査員は、本件について被告人に対し前同年六月二一日午後三時ころから午後五時ころまで、同月二二日午前一〇時五〇分ころから午後零時ころまで、午後一時三五分ころから午後五時三〇分ころまで、午後七時五五分頃から午後八時五〇分ころまで、同月二三日午後二時ころから午後五時一〇分ころまで、午後七時一五分ころから午後一〇時ころまで、同月二四日午後六時ころから午後九時三〇分ころまで、同月二五日午前九時三〇分ころから午前一一時五〇分ころまで、午後一時一〇分ころから午後五時五〇分ころまで、午後六時三五分ころから午後九時ころまで、同月二六日午前九時一五分ころから午後零時ころまで、午後一時一五分ころから午後五時二〇分ころまで、午後六時四〇分ころから午後九時一三分ころまで、同月二七日午前一〇時二五分ころから午後零時二〇分ころまで、午後一時三五分ころから午後五時ころまで、午後六時四〇分ころから午後一〇時ころまで、同月二八日午前九時四八分ころから午後零時二〇分ころまで、午後一時二五分ころから午後五時一五分ころまで、同月三〇日午前九時ころから午前一〇時一八分ころまで、午前一〇時四〇分ころから午前一一時五〇分ころまで、午後五時五五分ころから午後一〇時二〇分ころまで、同年七月一日午前一〇時一五分ころから午前一〇時二〇分ころまで、午前一〇時三五分ころから午前一一時四〇分ころまで、午後一時二〇分ころから午後四時二〇分ころまで、午後七時一〇分ころから午後一〇時四五分ころまで、同月二日午後七時一〇分ころから午後九時四〇分ころまで、同月三日午後一時一五分ころから午後五時四五分ころまで、午後六時一〇分ころから午後一一時四五分ころまで、同月四日午後六時二五分ころから午後九時三〇分ころまで、同月五日午前九時四五分ころから午後零時二五分ころまで、午後一時二〇分ころから午後六時ころまで、午後七時ころから午後九時五分ころまで、同月六日午後一時二〇分ころから午後三時三〇分ころまで、同月七日午後零時五分ころから午後五時ころまで、午後七時一五分ころから午後一〇時三〇分ころまで、同月八日午前九時二五分ころから午前一一時五五分ころまで、午後六時二〇分ころから午後九時四〇分ころまで、同月九日午前一〇時一五分ころから午後零時五分ころまで、午後一時ころから午後六時一五分まで、午後六時五〇分ころから午後八時三五分ころまで、同月一〇日午後一時四三分ころから午後三時五〇分ころまでの間の短時間同月一一日午前一〇時三〇分ころから午前一一時二〇分ころまでの間取り調べをなし、同月三日午前九時三〇分ころから午前一一時四〇分ころまでの間(但し、出監時間)四日市駅西口から第二現場に至るまでの計六ヶ所において実施された実況見分の立会人として現場指示および供述を求め、同月四日午前一一時一〇分ころから午後零時一〇分ころまで、同月一一日午前一一時二〇分ころから午前一一時四五分ころまで、午後零時三五分ころから午後一時一〇分ころまでの各間、(但し、以上各出監時間)南署西側広場において、米川の殺害方法や本件車両内での被告人の行動能力等を明らかにする目的で実施された各実況見分時に、本件犯行の再現と現場供述を求めた。

(2) 他方検察官は、本件について、被告人に対し、前同年六月二三日午前九時四〇分ころから午後零時五〇分ころまで、同月二四日午後一時一〇分ころから午後四時三〇分ころまで、同年七月二日午前九時五五分ころから午前一一時五〇分ころまで、午後一時二〇分ころから午後五時二〇分ころまで、同月四日午後一時ころから午後五時五〇分ころまで、同月一一日午後一時二〇分ころから午後六時二五分ころまで、同月一二日午前九時三五分ころから午前一一時二五分ころまで間取調べをなした。

(3) なお、この間に被告人が別件あるいは余罪について取調べを受けたのは、同年六月三〇日午後一時二〇分ころから午後四時三〇分ころまで、同年七月八日午後一時二五分ころから午後四時四五分ころまで、同月一〇日午後一時五三分ころから午後三時四〇分ころまでの間で、取調官は全て検察官であった。

(二) 自白の状況

被告人は、前同年六月二一日本件逮捕直後、本部捜査員に対し、本件の容疑を認めて弁解録取書(55)が作成されたうえ員面調書一通((一)115以下第三調書という。)も作成されたが、同月二二日一変して否認に転じ、同月二三日には再び自白に転じ、検察官により南、池村各巡査部長の同席の下で右同様の弁解録取書((一)116)が作成されたうえ、員面調書((一)117以下第四調書という。)も作成され、さらに同月二四日にも南巡査部長同席の下で裁判所書記官により前同様の勾留尋問調書((一)118)が作成され(なお右検察官による弁解録取および裁判官による勾留尋問手続の際の押送要員の中には岡警部補も含まれていた。)、同月二四日には検面調書((一)117以下第五調書という。)、同月二五日((一)119、以下第六調書という。)、同月二八日((一)120、以下第七調書という。)、同月三〇日、((一)121、以下第八調書という。)、同年七月一日((一)122、以下第九調書という。)にもそれぞれ員面調書が作成されたものの、同月二日検察官の取調べを受けてまたも全面否認をなしたが、同日夕刻からの本部捜査員による取調べの結果、これを撤回して員面調書(4、以下第一〇調書という。)が作成され、同月三日にも員面調書((一)123、第一一調書という。)が、同月四日には検面調書((一)134、以下第一二調書という。)が、同月五日員面調書二通(「私が今日まで」より始まる分、(一)124、以下第一三調書という。「私が本年三月三一日」より始まる分、(一)125以下第一四調書という。)が、同月六日にも員面調書((一)126、第一五調書という。)が、同月八日員面調書二通(「犯行当日の」より始まる分、(一)127、以下第一六調書という。「私は今改めて」より始まる分(一)128、以下第一七調書という。)が、同月九日員面調書四通(「問、君が今回の」より始まる分、(一)129、以下第一八調書という。「前回にお話」より始まる分、(一)130、以下第一九調書という。「本年四月一〇日」より始まる分、(一)131、以下第二〇調書という。「昨日に引き続き」より始まる分、(一)132、以下第二一調書という。)が、各作成されたが、同月一〇日には全面否認がなされ、同月一一日、員面調書(56、以下第二二調書という。)と検面調書((一)135、以下第二三調書という。)が、同月一二日検面調書((一)136、以下第二四調書という。)が各作成された。

なお前記の各実況見分については、各本部捜査員により同月三日実施のものは同月四日付((一)31)で、同日実施のものは同月七日((一)32)付で、同月一一日実施のものは同月一四日付((一)33)で各実況見分調書が作成された。

ところで被告人は、右のとおり同年六月二二日、同年七月二日、同月一〇日に各全面否認に転じているほか、本部捜査員による取調時には、自白内容の矛盾点等に対する取調官の発問に対する答に窮し、しばしば私がやったのではないから分らない旨申し向けて一時否認に転ずることがあったものである。

(三) 取調べの状況

(1) この間も本部捜査員による被告人の取調べには、前記の南署四階機動捜査隊仮眠室が用いられ、取調官は、前記木田、岡、南、池村、片出の他本部捜査員河合碩夫巡査部長、東地仁郎巡査部長らであり、前同様常時四名以上が取調べにあたったが、この時期における被告人の取調べは岡警部補が中心となって行われることが多く、木田警部は、被告人が否認に転じた時等に、再びその中心となることがあったほかは、概ね、取調状況を見るために、取調時間中に右取調室を度々訪れ、録取中の自白調書の内容を検討する程度にとどまった。

(2) 取調時の被告人の位置、姿勢も、別件勾留中の本件についての取調時のそれと大きく変った形跡はなく、取調官の位置については、右のとおり木田警部が取調べに参加しないことがあったほか、右と同様であり、また被告人の否認時などに右木田が取調べに参加する場合には、前同様であった。

(3) この時期における被告人の自白時の取調べの具体的内容については、木田証言、岡証言は殆んど触れるところがなく、後に本件各書証の検討を通じて推認する外ないが、被告人の否認時の具体的内容については、別件勾留中の本件についての取調時のそれと概ね同様であり、特に前同年七月二日被告人は、検察官に対して全面否認をなし、第一調書に物の金種の記載がある点に関しては、ポリグラフ検査官から教えて貰ったと申し述べたところ、検察官は、同日の取調内容を直ちに本部捜査員に連絡(その際取調べの実情を調査し必要な指示を行う等の何らの配慮がなされた形跡はない。)したことから、同日午後七時一〇分ころより木田警部、岡警部補らの厳しい取調べを受け、なお右金種の点に関して、三つかいくつか教えて貰った旨説明をなし、これは前記認定のとおり真実であったにもかかわらず、そのようなことはあり得ない旨言下に否定されて問い詰められ、結局同日再び本件を自白したが、木田証言はその際の取調べにつき、「ともかくやってしまったことは仕方がないということ、それを中心に。いくらそういうことで言い逃れをしてもこれはもう駄目だ。やってしまったことは深く話をして、それに対して服するのが人の道であるということをくどく言い聞かせてやった。」というのである。

五、当公判廷で取調べられた証拠の検討

1、はじめに、

前記のとおり、本部捜査員により本件強盗殺人事件について被告人に対して行われた取調べの具体的内容については、被告人の供述と木田証言および岡証言との間には大きな食い違いが存するのであり、前記認定の程度を超えてさらにこの点を明確にするためには、本件各書証とその供述内容の裏付けのために提出された証拠の内容および収集経過(検察官より本件の捜査状況を立証するために提出された多数の捜査報告書は、本件被害の状況等ごく一部に関するものを除き、明らかに本件強盗殺人事件の捜査開始直後ころに既に得られたと認められる情報に関するものを含めて、殆んどが被告人の本件逮捕後に作成され、当該情報を最初に入手した時期を明確にしていないのであり、被告人の供述を裏付けるために提出されあるいは申請後撤回された書証の多くが右逮捕後に作成されたことと相俟って、本部捜査員が当該参考人から、最初にいつどのような内容の情報を得たか等、捜査の経過を明らかにできないものが多い。)とを対比、検討する必要があると考えられるから、以下右の目的に沿って、既に当公判廷で取調べた証拠のうち主要なものにつき、以下検討することとする。

2、本件の動機に関して、

(一) 村上徳次郎の昭和五〇年六月二七日付員面調書

同調書によれば、被告人は、昭和四九年六月ころから同年一一月四日までの間に、その都度村上徳次郎に対し、先になした借金は近く返済する旨申し向けながら順次借り増して金六〇万円の借金をなし、一旦これらの返済を同年一二月五日になすと約したものの果さず、村上と会う度に同人から返済方を催促され、同五〇年三月二五日ころには同人から公正証書を巻こうと申し向けられて印鑑証明書の交付をなしたが、その際順次少しずつ返済してくれれば良いとも言われており、なおこれまで同人が被告人に催促するのは、電話を利用する際の他は、常に被告人の方から訪れた際であり、村上の方から被告人を訪れる等して催促したことはなく、ことさら被告人を脅すなどということもなく、さらに同年二月末ころから同年三月二四日までの間に内金五万円の返済を受けており、村上としては残金についてもそのうちに返して貰えると思っていたものであることが認められるにとどまる。

(二) 第二一、二二回公判調書中の証人益川文一の各供述部分(以下益川証言という。)

同証言によれば、益川文一は、不動産業等を営む益川商会の経営者であるが、昭和四七年ころ被告人と知り会い、その後被告人が不動産周旋業を営んでいたことからこれが宅建業法違反に問われることがないように被告人に同商会の従業員の資格を与え、以来被告人は、益川から賃金等の支払いは受けなかったが、毎朝のように益川の事務所を訪れて、折りに触れ不動産売買の情報交換をしたり、益川に対し取引の口ききをなしたりするようになり、益川は、同四九年ころから被告人に対し金銭の融通をなすようになったが、同年五月一四日金一〇〇万円(金一〇万円天引き)を貸し渡したところ返済を受けられなかったため、同年一一月二二日被告人と合意の上で他の小口の債権と利息を加え、これを金一五〇万円の貸金となしたこと、同月二六日被告人に対し、見せ手形として利用するが流通に置かないとの約束で額面金一〇〇万円の手形を交付したところ、被告人において右約束に反したため、銀行で決済されてしまうということがあり、その資金については益川と銀行との間で、銀行が印鑑照合ミスの責任をとりこれを無期限融資とするということになったが、益川はこれも被告人の債務であるとし、同五〇年二月末ころからは右計金二五〇万円の返済を請求するようになり、間もなく被告人との間で同年三月三一日が返済日と定められたこと、益川は、同日が近づくにつれ、被告人に対して本当に返せるのかと厳しく念を押すようになったが、被告人に対する小口融資は続けており、同四九年一二月三日に金四八万五千円、同五〇年二月二五日に金二〇万円、同年三月一五日あるいは一七日に金二〇万円、同月一九日に金五五万円と計四回総額金一四三万五千円に及んでおり、なおこれらのうちには返済を受けたものもあり、同年三月三一日当時の被告人の返済未了分は、右合計金三九三万五千円とその利息のうち約金三〇〇万円であったこと、益川は、被告人から返済を受けられなかったために、同日午後一一時ころ被告人方を訪れ、被告人の不信を責めて、右手形の分を除く金二〇〇万円について、「昭和五〇年四月七日正午までに益川商会に持参申します。」との念書を書かせていること、しかし益川は同月五日あるいは七日にも被告人に対し金一五万円を融通しており、右金二〇〇万円は約束の返済日に返済を受けられなかったが、その後の益川と被告人との前記の関係に変化はなく、被告人は、従前どおり益川の事務所を訪れており、益川からの借金については少しずつ返済をなし、同年六月一一日現在の益川からの借金総額は前記手形の分を含めて金二五〇万円であったことが認められるにとどまる。

なお、益川証人は、同人の同年七月三日付検面調書および同年六月二四日付、同月二七日付、同月三〇日付各員面調書に代えて取調請求がなされたものであるが、同人は前記の被告人のアリバイ捜査上重要な参考人であるため、本部捜査員は、別件逮捕に先立ち該捜査を行っていたころには既に同人から被告人との関係につき何らかの聞き込みを得ていたものと推認できる。

3、兇器の準備について、

赤河勇喜の前同年六月二七日付、赤河真一郎の同年七月九日付各員面調書

右各員面調書によれば、赤河金物店では、同年三月一四日刃渡り一二センチメートル、刃巾二・五センチメートル、(全長については二五センチメートルとするが、これを入れた箱の長さを二三・五センチメートルとするもので、右全長に関する部分はにわかに措信できない。)のペティナイフ二丁を仕入れ、定価金一三〇〇円で店頭に置いたところ、同年六月二〇日までにうち一本が売れていること、同店の経営者は七〇才であることならびに同日右赤河真一郎らが本部捜査員に対し、右売れ残っていたペティナイフ一丁を任意提出して領置されたことが認められるにとどまり、なお右赤河勇喜の員面調書には右ペティナイフの陳列位置等を記載した図面二葉が添付されている。

4、本件犯行について

(一) 伊藤正行の事務所への電話について……第七回公判調書中の証人森直子の供述部分(以下森証言という。)

同証言は、森直子は伊藤正行経営にかかる株式会社三重開発の事務員であるが、昭和五〇年三月三一日午前九時二二分ころ被告人から同事務所に電話があり、伊藤の行きつけの喫茶店ワンに電話してもらったところ、被告人から更らに折り返して伊藤は同所にいない旨電話があった、それは公衆電話からのものだったと思うというのであるが、同証言および伊藤正行の同年七月四日付供述調書によれば、右電話が三月三一日にあったとの記憶は、同事務所で同女が毎日使用する日めくり式メモ帳の同日用紙片に「9・22こじまTEL」等の記載が残っており、同人は毎日当該日用紙片しか使用していなかったということに基づくものであると窺われるが、右記載は、同日用紙片の最後のメモ記載としてなされ、その上部に午前一〇時の事項に関する記載がなされているところ、森証言はその理由については記憶の喚起ができなかったものであり、また同証言は右電話を受けた際に一〇円玉が落ちる音がしたというのであるが、かかる日常の生活に埋没する極く些細な出来事を、しかも会社事務員として毎日頻繁に電話を受けている者が後日まで明確に記憶しているということは特段の事情のない限り到底考えられないものと言うべきであり、こうした点に照らせば、前記引用の供述部分もにわかに措信できない。

なお森証人は、同女の同年六月一六日付員面調書に代えて取調請求がなされたものであるが、同年七月四日、同女の記憶の基礎となったメモを添付した伊藤正行の員面調書が作成されていることに照らせば、本部捜査員において、右電話の事実が存在するとの心証を得たのは、同日迄の間であったことが窺える。

(二) 第一現場方面から第二現場方面への経路について……第六回公判調書中の証人三輪利子の供述部分(以下三輪証言という。)

同証言は、昭和五〇年四月二日より一週間か二週間前に本件車両が第一現場と第二現場とを結ぶ路上の一地点を走行するのを目撃したというにとどまり、本件との関連性を有しない。

ところで同証人は同女の同年六月二一日付、同月二七日付各員面調書に代えて取調請求がなされたものであるが、同証言によれば、右各員面調書は、本部捜査員が昭和五〇年四月二日ころから何度も同女を訪れ、同女が右証言のとおり供述したにもかかわらず、しきりに四月二日の二、三日前だろうと誘導がなされた結果、同女において大事ではないとの軽い気持ちから録取に応じ署名指印したものであることが認められる。

(三) 逃走経路について……第四回公判調書中の証人高瀬ヤエ子の供述部分

同証言は、同年三月三一日午前一一時四二分ころ、四〇才前後の、チョコレート色の服、カーキー色よりは少し白いズボン、白系統で薄い色のシャツを着用し、髪は油で固めているわけでもばさばさでもない少し油切れの感じで長くも短くもない、顔は丸くも長くもない普通の顔で、顔面は蒼白というか例えようのない色をしていた男が、左手は曲げて固定する姿勢で西から大股で急いだ歩き方で約六メートル歩いて来て、駐在所西脇の路地へ入るのを二三メートル(主尋問に対するもの)から一三メートル(反対尋問に対するもの)離れた所から二分間見ていたというのであるうえ、さらに押収してある濃茶縦縞背広上衣一着を示されて、もう少し明るいが色が略々間違いないので九九%似ていると、同薄ねずみ色ズボン一本を示されて、色ははっきり覚えがないがそのような色めだったとそれぞれ供述し、また被告人の顔を見て、正面からの顔は見ていないので分らないが、横顔は距離が違うので感じは違うが輪郭は似ている、この近さでは断定できないというのであり、なお、右公判廷において同証人が作成した図面と、当裁判所の検証調書、司法警察員作成の同年五月三日付実況見分調書とを総合すれば、同証人のいう目撃距離は一九メートル以上、男の歩いた距離は約一三メートルに過ぎないことが明らかであるが、同証言は目撃時間の点(一三メートルを歩行する際の所用時間が通常の速度で約一二秒、早足で約八秒前後であることは経験則上明らかである。)で明らかに不合理であるほか、右目撃距離から、偶々極く短時間瞥見したに過ぎない男について、しかも右の経験自体が日常のほんの些細な出来事であるにもかかわらず、男を目撃した日時等は勿論服装、顔色、歩き方等についてまで正確かつ詳細な記憶がとどめられることは、余程特段の事情でもない限り、到底考え得ないところ、同証言はこれを仔細に検討しても、右特段の事情の存在は何ら窺えず、さらに同証言にいう右の男が印象に残った理由とするところと、前記の捜査報告書に記載されたそれとは明らかに相異点が認められるのであって、同証言は全くこれを措信できない。

果して、右証言および右捜査報告書によれば、本部捜査員が高瀬から不審な男を目撃したとの聞き込みを得たのは同年六月六日より前であり、高瀬は最初の事情聴取時には、目撃していない旨述べていること、同人は、同日午後一時三〇分ころには南署内刑事室において、同年七月三日午前一一時三五分ころは第二現場付近で被告人の確認を求められていること、なお目撃した日の特定については本部捜査員の誘導によるものであることが明らかであり、これらの捜査過程で記憶の変容をきたしたものというほかはない。

(四) 本件犯行後の行動について、

(1) 兇器の隠匿場所について……司法警察員作成の昭和五〇年六月二八日付実況見分調書

右実況見分調書によれば、被告人の自宅の下駄箱の上面および正面開き戸の片側の各一ヶ所ならびにその背後に置かれた板の最下部から高さ一四センチメートル、同一三センチメートル、両者の間隔三一・五センチメートルの二ヶ所からそれぞれ直径二、三ミリメートルの点状にルミノール反応が検出されたことが認められるが、鑑識課技術吏員大西永一作成の鑑定書によれば、それが人血か否かは判明しなかったというのであるから本件との関連性を有しないというほかはない。

(2) 帰宅について……古嶋千裕の同年七月五日付員面調書

右員面調書の立証事項を善解すれば、「昭和五〇年三月三一日正午前後ころ被告人が帰宅しても家族は知り得なかった事実」とでも言うべきものであるところ、同調書は、被告人の長女である古嶋千裕は、同日午前一〇時前後ころ、被告人を送り出し、自分も一時外出したものの、午前一一時一二、三分ころから一一時四五分ころまでの間自宅におり、その後短時間自宅玄関先空地において妹らと共にボール遊びを行ったうえ、隣家の庭先を訪れ、家人と約一五分間立話をなして帰宅したというのであり、第二九回公判調書中の証人古嶋千裕の供述部分と、各供述自体およびその相互間において、矛盾点や不自然不合理な点は見受けられず、なお同証言によれば、同女は同年六月一四、五日ころから四、五回本部捜査員から右の点につき取調べを受け、うち二、三回については、員面調書が作成されたというのであり、その間に記憶の変容をきたした可能性は、前記各検討したところの各員面調書の問題点に照らし、これを否定し切れないものと言うべきであるが、他面前記の捜査報告書によれば、同調書は弁護人の立会の下で録取されたことが窺われ、その限りでは右変容は仮りにこれありとしても最少限度にとどめられていると見られ、また同女は被告人の娘であり、かような場合に被告人に有利な供述がなされることはあり得ないことではないが、同調書が未だ捜査の密行性が完全に確保されていると見られる被告人の本件による勾留中に録取されたものであることに照らせば右取調べに対して被告人をかばうという作為をなすことは殆んど不可能であると認められ(なお、同調書は検察官により申請されたもので、勿論これに反する証拠は一切存しない。)、結局同調書の記載内容の真実性についてはこれに合理的な疑いをさしはさむ余地はなく、その内容のとおりの事実が認められ、また右の点に照らせば、同証言もなお十分措信しうるものと考えられ、そうすると同調書および同証言により、右認定の事実のほか、さらに、同女がボール遊びをしていた地点は被告人方へ入る唯一の出入口付近であり、また隣家の庭先で同女が立話をしていた地点は、被告人方玄関に近く、その風呂場からは約三メートルしか離れていないこと、そのころ被告人方玄関扉の開閉にはある程度の音が伴ったことが認められる(なお、同調書を前記の立証事項の下に申請するためには、被告人方と隣家とを併せて検証あるいは実況見分がなされてしかるべきであり、特に被告人方については、後に検討する被告人の供述の裏付けのためにも当然考慮されるべきであったと考えられるが、被告人方下駄箱周辺について前記の実況見分がなされたほかは、同調書に当時高校一年生であった右千裕の作成した極めて要領の得ない鉛筆書きの図面が一通添付されているに過ぎない。)、同日の正午前後ころ、被告人方を訪れ、風呂場を使用する者があったとすれば、むしろ右千裕において、これに気付き得たものと推認するのが相当である。

5、ミスタースリムの入手等について、

(一) 第五回公判調書中の証人野田品子の供述部分(以下野田証言という。)

同証言は、同女は、前同年三月ころ喫茶店ニューグランドにおいて、被告人に対し一七、八個入りのミスタースリム一箱を与えたというのであるが、当初取調請求のなされた同女の同年六月三〇日付員面調書と、第三回公判において同証人の採用決定がなされた後の同年一一月二七日(同公判で指定された喚問期日は翌同月二八日の第四回公判期日であり、同日不出頭につき、同年一二月一二日の第五回公判期日で取調べられた。)付の検面調書については、警察官から四回、検察官から一回取調べられたが、警察官の取調べの際には、必ず被告人がそう言っているのであればということで供述したもので、検面調書については員面調書を殆んど引写しに読み聞かされて調書ができたもので、自分は具体的には話しておらず、子供の帰宅時間が迫り早く帰りたいので署名したというのであり、なお前記の捜査報告書によれば、本部捜査員が同年六月二一日同女を取調べた際には、種々誘導をなしながらも、実質的には同年になってからである旨の確認を得るにとどまったことが明らかであって、これらの諸点に照らせば、野田証言中前記引用部分は、右各取調時に右各誘導の結果記憶に変容がもたらされた疑いがあり、にわかに措信できない。

(二) 森証言

同証人は、前記のとおり各員面調書の取調べに代えて申請されたのであるが、同証言は、同女が、同年一月か二月ころに被告人がミスタースリムを喫煙するのを目撃したというにとどまる。

(三) 第七回公判調書中の証人川崎一夫、同川崎いつ子の各供述部分

両証人は、両名の同年八月五日付各員面調書に代えて取調べ請求がなされたものであるが、右各証言は、両名が、いずれも被告人がミスタースリムを喫煙するところを目撃しなかったというものである。

六、本件各書証の内容の検討

1、はじめに

本件各書証中、別件勾留中の被告人の自白を内容とするものが、第一、第二調書であり、その余の本件各書証は、いずれも本件逮捕勾留中の被告人の自白を内容とするものであるところ、右第一、第二調書は、本件犯行の大筋について、昭和五〇年三月中旬ころ、刃物を用いて金員を奪うことを企図し、これを購入したうえ、同月三〇日実行しようとして果せず、同月三一日には必ず果そうと決意して自宅を出、四日市支店で米川と出会い、本件車両に同乗して沖の島支店に立寄ったうえ、第一現場に至って停車中の本件車両内で右刃物を用いて米川を一回突刺し、さらに米川運転の本件車両で第二現場に至り、同所で右刃物を用いて米川を多数回突刺して殺害し、金八五万円を奪って帰宅し、暫らくして松阪競輪に向ったとするのであるが、その余の本件各書証はいずれもこれと一致し、あるいはこれを前提とし、さらに補足、補充するものである。なお本件各書証は全三〇通に及ぶのであるが、本件犯行の経緯全般に亘って順を追って詳細に触れられたものは、第一、第二、第五、第一一、第一二調書の五通、本件犯行それ自体につきある程度全般的かつ具体的に触れられたものは第一五調書および司法警察員作成の昭和五〇年七月四日付(実況見分の日時同月三日)、同月七日付(同、同月四日)、同月一四日付(同、同月一一日)付各実況見分調書の四通である。

以下本件各書証が録取された際の取調の状況を明らかにする目的で、これらの内容につき検討することとする。

2、自白時の被告人の心境

第一調書には、「こうして警察に入れられており、特に約二〇年位も私に親切にしてくれた村上さんのことを考えると、胸が痛み、自分のやった罪を悔い、お話しする気になったのです。」との、第二調書には、「自分のやったことについては正直な話をして罪のつぐないをしたいと考えておりますので、今日は、この事件のすべてをお話し致します。」との、第五調書には、「被害者の米川誠郎さんや米川さんの遺族の方にはなんと言ってお詫びしていいのか申す言葉もなく大変反省しております。又警察の人に私の家族の事を心配してくれた事からこの際すべてをありのままにお話をし、清算しようと思い、今回の米川さんの件を話す気になったのです。今は本当に米川さんやその家族の方を気の毒に思っております。」との、第一一調書には、「結局自分のやってしまったことは正直に話をし自分で責任を取らなければいけないと覚悟をきめましたので、ただ今からその事情を詳しく説明致します。」との各供述部分があるが、これらと前記認定の第一調書録取時の被告人の態度とを合せ考えると、いずれも本件の如き極めて重大な犯罪について自白をなす犯人の心情の吐露としては、余りにも無内容で、第三者に訴える力に乏しいものであり、さらに第一調書においては、被告人と村上との前記認定の関係に照らしても、いかにも取って付けた感を免れ得ないものである。

3、本件犯行の動機

第一調書では、いずれも本件犯行当日が返済期日である村上からの借金六〇万円と益川からの借金一〇〇万円の金策に困り果ててしまったことを、第二調書では返済期日右同様の村上からの借金六〇万円のうち、金二、三〇万円と、益川からの借金二五〇万円のうち金二〇〇万円の存在と生活苦とが、被告人の検察官に対する弁解録取書では総額金二六〇万円の借金に追われていたことが、第五調書では返済期日前同様の村上からの借金六〇万円と、益川からの借金二〇〇万円の存在と生活苦とが、第八調書では、返済期日前同様の村上、益川からの借金二六〇万円の金策に困り果てたことを、第一一調書では村上からの借金六〇万円と益川からの借金三〇〇万円のうち金二〇〇万円の返済を迫られていたことを、第一二調書では返済期日前同様の村上からの借金六〇万円と益川からの借金二五〇万円の内金二〇〇万円およびその余の者に対する総額二六〇万円の借金の各存在と生活苦とがそれぞれ本件犯行の動機とされ、第一七調書には、「決して生活費や自分の遊ぶ金が欲しくてあのような大それた事件を起したのではありません(中略)。どうしてもまとまった金を作って益川さんに支払い私の体面をつくろいたいと考えたからであります。」との各供述部分があるが、第一、第二、第五、第八、第一一、第一二調書等と第一七調書との間で大きな矛盾が存するほか、前者については、被告人の村上および益川からの借金の状況につき殆んど取調べの度に供述が変遷しているうえ、いずれもこれらの点につき前記認定した事実と相反しているうえ、被告人とこれらの者との関係、とりわけ昭和五〇年三月三一日以後の関係に変化がなかったこと等に照らせば、右に引用した本件犯行の動機に関する供述は余りにも不自然であり、また後者はさらに動機性が薄弱であると言うほかはない。

4、兇器の準備

(一) 兇器の購入

第一調書には、前同年三月中旬ころ沖の島支店付近の刃物屋で刃渡り二〇センチメートル位、片刃の庖丁を買った旨の、第二調書には、同月一七日か一八日ころ、四日市市新道地内の金物店で庖丁を買った旨の、第五調書には同日ころ、同所の金物店で全長約二〇センチメートル、刃体の長さ約一四、五センチメートルの庖丁を六〇才から六五才までの男から、代金一〇〇〇円前後で買った旨の、第一一調書には、同月二〇日ころ前同所のアカガワ金物店で全長約二二センチメートル刃渡り約一五センチメートル、先のとがった柄は褐色の庖丁を代金一〇〇〇円余りで買った旨の、第一二調書には、同日ころ赤河商店で、全長、刃渡り右同様の庖丁を代金一〇〇〇円位で買った旨の、第一八調書には、同月一七、八日ころアカガワ金物店で、全長二二、三センチメートル、刃渡り一四、五センチメートル、柄約七、八センチメートル、刃巾二・五センチメートル、黒茶色木製で柄の止めが二ヶ所にある紙箱入りの庖丁を、六四、五才位の男から、店の西側で奥の方にある陳列棚の下の方に種類の違う庖丁七、八丁並べてある中から、代金一〇〇〇円か一〇〇〇円余りで買った旨の、第二四調書にはほぼ右同旨の各供述部分があるほか、第二調書(作成日付同年六月二〇日)には店の位置が併せ記載された同月一九日付の、第一一調書(作成日付同年七月三日)には店の位置、店内の状況、購入にかかる庖丁の陳列位置が記載された同年六月一九日付の、第一八調書(作成日付同年七月九日)には、庖丁の形状が記載された同年七月八日付の各被告人作成名義の図面が添付され、さらに第一八調書には、右供述の後に刃物九丁を示されてペティナイフ一丁を確認する供述部分があるのであり、右各供述部分等は、刃渡りにつき第一調書とその余の調書とでは大きな食い違いがある他は、一見して相互に矛盾点はなく、記憶が次第に喚起されて詳細な供述になって行った自然なものとも見られなくはないのであるが、前記認定のとおり、第二調書作成日に本部捜査員が赤河商店から右ペティナイフ一本を購入しているのであり、岡、木田証言によれば、右ペティナイフは同日以後比較的早い時期に行われた取調べにおいて、「やった刃物を、自供によって心証をとる」との目的で被告人に示されていることが認められ、なお第一八調書自体により、同調書録取時に示された右刃物九丁のうち八丁は、その当日領置されていることは明らかであり、同日これらの刃物とともに右ペティナイフが初めて被告人に示されて被告人が確認したが如き供述調書が作成されていること、なお右各図面についても、これらがその作成日以後の調書に添付されていること自体不自然である(これは後に述べる自白調書添付図面の全てについて共通することである。)ほか、先ず、第一八調書添付図面について、木田証言は、「下書きを誰がしたか記憶ないが、補助者をしてそのようなものをさせたとは思う。」というのであり、第二調書添付図面と第一一調書添付図面については同一作成日付であるにもかかわらず前者に刃物屋と、後者に金物店と各記入され、これらと同一作成日付で作成され第二調書に添付された大和銀行の位置等を記載する図面には、作成日の後に作製者古島善一郎と記入されているにもかかわらず、これらには単に古嶋善一郎となっている等の諸点を指摘できること等を総合すれば、結局第五調書以後に作成された調書は、少くとも本件兇器に関する限り、全て、直接あるいは間接に取調官の誘導に基づくものである疑いを否定し難いのであり、その意味において、これらの取調時に被告人の記憶が次第に喚起されていったものと認めることができず、してみると結局兇器の購入に関する限り、誘導によるとの疑いの存しないものとしては、第一調書中の前記供述部分にとどまるのであり、その刃渡りから推定される全長と押収にかかる濃茶縦縞背広上衣一着の内ポケットの深さが約一八・五センチメートルである事実を勘案すれば、第一、第二、第五、第一一、第一二、第一五、第二三調書等において、被告人が本件犯行当日、兇器の刃先を上に向け、右上衣の内ポケットに入れていた旨供述している点も自傷のおそれのある極めて危険な行為であって、不合理であると言うほかはない。

(二) 兇器の保管

第二調書には右購入にかかる兇器を自宅衣裳箱の底に隠した旨の、第五調書には、これを自宅整理タンスの中に隠した旨の、第一一調書には、自宅整理タンス一番上の抽出しの中に入れた被告人の肌着などの下に隠した旨の、第一二調書には、これを自宅整理タンスの一番上の抽出しの中に隠した旨の各供述部分があるが、第二調書とその余の供述調書との間に明らかな食い違いが存する。

5、本件犯行前日の被告人の行動

本件各書証の内容は、要するに、被告人において当初銀行帰りの者を刃物で脅して金員を奪おうと企図したというものであるところ、本件犯行前日の行動について、第二調書には、家を出る時に刃物を隠し持ったが、日曜日で銀行が休みの上他の用もあったので実行に移す気になれず実行しなかった旨の、第五調書には、日曜日だったが返済日が迫っていたことから金を持っていそうな通行人がいたら脅して金をとろうと思い、庖丁を持って外出したが、適当な通行人がおらず収穫がないまま帰宅した旨の、第一一調書には、単に刃物を隠し持って外出したが実行に移さなかった旨の、第一二調書には伊藤正行と午前一一時に待合せがあり、同人と共に川喜田良一を訪ねて現地案内をしたうえ、右伊藤と一緒に大垣競輪に行った、その日庖丁を持ち出したが、伊藤と別れた後に金を持っていそうな人がいたら金を盗ろうと思っていたとの各供述部分があるが、同日が日曜日であったことは公知の事実であり、第五調書を除き、前記の企図と同日の行動が矛盾するという他はないこと、第五調書については本件犯行の動機について既に指摘したところが該当すること、これら供述の内容は極めて簡単なものであり、相互の異同につき必ずしも判然としないのであるが、少くとも第二調書と第五調書とでは失敗の理由につき食い違いがあり、第五調書によれば相手を物色していると窺えるところ、仮りにそのような行為があったとすれば、それは本件の全容を明らかにする上で極めて重要な事実であると考えられるのに、その後この点について何らの供述も録取されていないこと等を不自然な点として指摘することができる。

6、本件犯行

(一) 自宅を出る際の状況

(1) 自宅を出た時間

第一、第二、第五調書には概ね、午前九時三〇分ころ自宅を出た旨の、第一一、第一二調書には、それが午前八時三〇分ころであった旨の各供述部分があり、後記の四日市駅付近における行動に関する供述部分と併せ考えると、右一時間の差異は大きな食い違いというべきであるところ、第二調書には、「もう月の最終の日であり、自宅で決心し、その決心がにぶらないうちに実行しようと考え、いつも自分が家を出る時間までテレビの小川宏ショーを見て(中略)自宅を出たのであります。」との、第一一調書には、「借金の返済のことが苦になり眠れなかったので朝五時ころ目を覚まし、今日はどうしても銀行帰りの人を狙って脅してでも金を作ろうとばく然と考えていたのです。そしてその決意のままいつもより早く家を出たのであります。」との各供述部分があり、なおこれらの調書には右引用部分のほか、本件犯行の前夜から犯行当日の朝自宅を出るまでの被告人の心情についての供述部分は存せず、これらの内容が前記の企図を実行しようとしている犯人の心情としては不自然であるか否かはさて置くとしても、右心情は犯人にとって記憶の薄れ難いところと考えられるにもかかわらず、ここでは前記の自宅を出発した時間と共に右心情に関する供述までが大きく変遷しているのは全く不自然であるというほかなく、果して、右変遷の理由について第一一調書には、「『お前は三月三一日の午前九時二二分ころ桑名の伊藤正行さんの事務所に電話しているのではないか。』といわれて思い出したのですが。」というのであって、取調官の誘導による変遷であることは明白であるほか、かかる些細な行動の記憶喚起の結果、右心情や行動の記憶までも変るということ自体余りにも不合理と言わざるを得ない。

(2) 黒靴

被告人供述によれば、被告人は黒と茶色皮製短靴各一足を持ち、雨天時には前者を、晴天時には後者を履いていたことが認められるところ、第一調書には、天気が悪くどちらを履いたか分らない旨の、第二調書には、単に履物に覚えがない旨の、被告人の検察官に対する弁解録取書、第六調書には、単に黒靴を履いた旨の、第五、第一二、第一三、第二三調書には自宅を出る時雨が降っていたと思うので黒靴をはいて出た旨の各供述部分があり、これら供述内容およびその変遷経過ならびに第六調書にのみ黒色折畳式洋傘を持って出たとの供述部分がある不自然さに照らせば、本件犯行当日使用した靴の特定についても天候の点を含めて誘導がなされている疑いが払拭し難いものというべきである。

(二) 四日市駅西口から、四日市支店に至るまでの行動

第一調書には、午前九時四五分ころ、四日市駅西口(以下単に西口という。)でバスを降り、何という気はなしに四日市支店に入った旨の、第二、第五調書には概ね、午前一〇時ころ、西口で下車、同西口から階段を上り、コンコースを通って同駅表口(以下単に表口という。)南側のバスターミナル北端の信号機のある場所に出、目の前に同支店があり、そこで相手を捜そうと考え、信号が変ってから向う側に渡り、同支店前で五、六分間出入客の状況を見ていた旨の、第一一調書には、午前九時五分ころ、西口で下車、右コンコースを通って表口に出、約二〇分間益川の事務所へ行くかどうか考えたうえ、伊藤正行に所用を思い出してその事務所に電話し、その後一旦いつもの通り一応益川の事務所に顔を出そうと思い、諏訪神社前に出たが、借金のある益川に会う気になれず、同駅前に逆戻りし、そこで四日市支店帰りの客を物色しようと考え、同支店とは大通りの向い側にある喫茶店白揚から様子を見ようと考えて同店に入ったが、窓際の空席がなかったので、コーヒーだけ飲み、午前一〇時二〇分ころ同店を出て、同支店前公衆電話ボックス前に行った旨の、第一二調書には、伊藤正行方に電話するまでの部分は第一一調書と同様の、その後につき、電話を切ってから大和銀行からの帰り客がいいと思い、同支店前出入客の様子を見るために喫茶店白揚に入り、窓際の空席がなかったのでコーヒーを飲み、午前一〇時一五分ころ同店を出、右電話ボックスの所に行き一〇分位そこにいて客を見ていた旨の各供述部分があり、第一、第二、第五調書と第一一、第一二調書との間に大きな食い違いが存し、これは自宅を出た時間と同様、伊藤正行に対して電話をしている旨誘導されて記憶が喚起されたというのであるが、犯人であれば被害者と初めて接触する直前の約一時間の記憶を欠落し、既に指摘したようにごく些細な事実についての記憶の喚起の結果、それを思い出すというのは余りにも不自然であり、かつ第一一調書と第一二調書とでは、益川の事務所へ赴くという行動(同調書は引返す際の心の動きにまで触れているのである。)が、四日市支店前の公衆電話ボックス前で約一〇分間様子を見ていたとの行動に置き替えられ、時間の辻褄だけは合っているのであり、さらに当裁判所の検証調書によれば、四日市支店と白揚との距離は約一〇八メートルで、交通繁雑な大通りを隔てており、同支店前の出入客の状況は、同支店出入口の近くにある立木などで必ずしも十分には見通せず、まして大金を下して来る者を物色することは不可能であり、仮りにそれができると被告人が考えていたとしても、通常人ですら右の大通りを速やかに渡って狙った相手方を追うことも著しく困難であることは明らかであって、四日市内に居住し、四日市駅前の地理に詳しいはずであり、前記認定のとおり身体に障害を持つ被告人がかかる場所を選定することは不可解といわざるを得ない。

(三) 四日市支店での状況

第一調書には、午前一〇時一五分ころ、同支店入口に入った際、黒色の手提鞄(以下単に鞄という。)の中に銀行から引出した金を入れながらやってくる男が目につき、金を出させられるかも知れないと思って続いて外に出、五、六メートルつけて声を掛けたうえ、「私も笹川の方やで車に同乗させて貰えんか。」と申し向けて了承を得、一緒に駐車場入口まで行き、米川が車を出すのを待ち、助手席に乗せて貰った旨の、第二調書(作成日付昭和五〇年六月二〇日)には、午前一〇時一五分ころ、同支店入口に入った時に、金を入れたのか、少しふくらんだ鞄のチャックを締めながらやって来る男に出会って、続いて外に出、駐車場入口で男に追い付き、右同様に話かけて了承を得、同所付近で米川が車を出すのを待ち、助手席に乗せてもらった旨の、第五調書には、出入口の前にある段を一段上った時に米川と会ったとするほかは第二調書と同旨の、第一一調書には、午前一〇時四〇分の少し前に米川と会ったと解せられる、第一二調書には、午前一〇時二五分ころ右の段を一段上った時に、鞄を持ちチャックを締めながら出て来る米川に会った旨の各供述部分があり、第二調書には、四日市支店の位置および被告人らの行動を記載した同月一九日付被告人作成名義の図面が添付されているが、被告人と出会った際の米川の行動について、第一調書と第二、第五、第一二調書との間に、右出会った地点について、第一、第二調書と第五、第一二調書との間に、被告人が話しかけた地点について第一調書と第二、第五調書との間でそれぞれ食い違いが存する点は不自然であり、第一、第二調書については、前記認定の米川が四日市支店を出た時間と矛盾し、第二調書添付図面については、同年六月一九日付で作成された図面について既に指摘したところが該当するほか、被告人や米川の動きを示す線のうち、本件車両の駐車位置と後退した位置を結ぶ線のみ弱い不連続線であること、被告人作成名義の図面は、文字を横書きにする場合、全て左から右へ向っているのに対し、「私の乗車位置」との文言のみは逆に向うこと、右文言と被告人の待った位置の説明部分が訂正されていること等の不自然な点を指摘することができる。

(四) 沖の島支店での状況、

第一調書には、午前一〇時二〇分ころ同支店に着き、被告人、米川共に下車し、米川は鞄を本件車両内ウインドの上に置き、同車両にキーをかけて同支店に入り、約一〇分後に帰ってきたので、同車両から約四、五メートル離れた地点にいた被告人は車両の方に寄り助手席に着いた旨の、第二調書には、午前一〇時二〇分ころ同支店に着き、被告人、米川共に下車し、米川は、本件車両にキーをかけて、鞄は持って同支店に入り、約一〇分ないし一五分で戻り、同車両から五、六メートル離れた地点にいた被告人の所まで同車両を移動してくれたので助手席に着いた旨の、第五調書には、米川は、本件車両にキーをかけ、鞄を持って同支店に入り、被告人は同車両から四、五メートル離れた地点で待ち、一〇分から一五分後に米川が出てきたので乗せてもらった旨の、第一一調書には、午前一〇時五〇分ころ同支店に着き、米川を待ち約一五分後に出発した旨の各供述部分があり、米川の鞄の扱いにつき第一調書と第二、第五調書との間で、乗車の状況につき第一調書と第二調書との間で各食い違いが存することは不自然であるほか、これらの供述はいずれも前記認定の米川が沖の島支店にいた時間と矛盾するのであり、なお、第一調書は、米川が鞄を本件車両内に残したとするのであるが、同調書中、四日市支店において米川が金を鞄に入れながら出て来た旨の、さらに金は、四日市支店の袋に入っていた旨の各供述部分ならびに前記認定のとおり、被告人は昭和五〇年六月一五日虚偽の自白を開始したが、その内容は四日市支店から払い戻しされた金員を強取したというものであることに照らせば、むしろ被告人は、第一調書作成時においてもなお本件金が四日市支店で払い戻しされたものと思い込んでいた疑いが存するのであり、勿論この点は犯人が誤認することは決してあり得ないところというべきである。

(五) 沖の島支店から第一現場に至るまでの状況、

第一調書には、途中「水沢には山等があるでちょっと今持ってみえる金を投資してもらえばすぐふやしますで、現場へは今からでも案内しますよ。」と申し向け、米川が「見に行っても良い。」と答えてくれたが第一現場で停車して貰った旨の、第二調書では右同様のことを申し向けて米川が「見に行っても良い」と言ったので、「この辺でちょっと商談しましょに。」と言って第一現場で停車して貰った旨の、第五調書には、途中右同様の話を申向け米川も最初は「見に行っても良い。」と言っていたが、そのうち「今日は行けない。」と言い出したので、何とか話を進め様と「この辺でちょっと一服しませんか。」と申し向けて第一現場で停止して貰った旨の、第一二調書には車中前同様の話を申し向けたうえ、第一現場で停車して貰い、同所で現地に行くかどうか聞いたところ米川が「今日は行けない。」と答えた旨の各供述部分があり、第一、二調書と第五調書、さらに第一二調書の間に、いずれも第一現場において停車する前後の会話の状況、および停車の理由についての食い違いが認められるのである。

(六) 第一現場での状況、

第一調書には、第一現場で「是非その手持の金を投資してくれ。」と申し向けたところ、米川に強く断られたので、もうやむを得ないと思い、この人を刺してでも金が欲しくなり、背広のポケットに隠し持った包丁を出し、包んでいたハンカチを柄に巻きつけて、運転席にいる米川の脇腹めがけて一回突き刺し、「金を借せ。」と言ったところ、同人は「わあっ」と悲鳴を上げ「何するんや無茶するな。」と言うや否や本件車両を発車させた旨の、第二調書には、第二現場で米川から山林を見に行くことを断られ、「一〇〇万円位なら投資しませんか。」と何回も迫ったがどうしても断られたので、脅してでも取ろうと思い、二、三分前から背広ポケットに手を入れ刃物を包んだハンカチを柄に巻きつけて準備したうえ、いきなり米川の脇腹めがけて突き刺したところ、米川は「うっ何するのや。」と悲鳴を上げたのでその胸元左側に刃物をつきつけ「金をかせ。」と申し向けたところ、同人は「何するのや無茶するな。」と言っていきなり発車させた旨の、被告人の検察官に対する弁解録取書によれば、車中山林買わないかともちかけた際には騙しとるつもりであったが、拒否されたので殺して盗ろうと思い米川を刺した、なお米川は四日市支店に寄ったし月末のことでいくらかの金をおろして鞄の中に持っていることは想像できた旨の、第五調書には、第二現場で再度「現地見に行かれますか。」と申し向けて断られ、さらに「一〇〇万円投資してくれ。」と申し向けたのも拒否され、米川は銀行帰りであり、その口振りから一〇〇万円位の現金を持っているとうすうす感じていたので、刺してでも金を取ろうという気になり、背広のポケットに用意してきた庖丁を出し、包んでいたハンカチを柄の方にずらし、庖丁の先が小指の方向になる様に庖丁を掴み、米川の左脇腹めがけて一回突き刺したところ、米川は「うー。何するのや。」と悲鳴を上げて被告人の方を見、さらに「なにするのや無茶するな。」と怒った様な口調で言い、発車させた旨の、第一一調書には、第一現場で米川と約一〇分間話をしたが思うように金を出してくれないので、二、三分前から内ポケットに手を入れ刃物を包んでいたハンカチを柄の方にずらして握りやすいように準備したうえ、米川の隙を窺い、脇腹めがけて突き刺したところ、米川は「うっ。」とうなり「何するのや何の恨みがあるのや。無茶すんな。」といって抵抗しそうな気配だったので、さらに米川の胸のあたりに刃物をつきつけたところ、米川は急に発車させたがその際米川が「交番へ行こう。」といったような記憶があり、ですからびっくりして「えらい悪いことをしたな大丈夫か。」と言った旨の、第一二調書によれば、第二現場で米川に現地に行くかどうか尋ねて断られた後、「一〇〇万円投資してくれ。」と言ったがこれも拒否されたため、やむを得ない刺してでも金を取ろうという気になりブレザーの左内ポケットに柄が下になる様に包んで持って来た庖丁を出し、包んでいたハンカチの部分を右手で柄の方にずらし、米川の左脇腹辺りを一回突き刺したところ、米川は「うー。」とうめき被告人の方に向き直りながら「なにするのや、無茶するな。」と言って発車させた旨の各供述部分があり、なお当裁判所の検証調書に照らし、右各供述調書の内容から被告人らが第一現場に居たことになる時間を推定すれば、第一調書については午前一〇時四五分頃から一一時一〇分頃まで、第二調書については、午前一〇時四五分頃から一一時頃まで、第一一調書については午前一一時二〇分頃から一一時二七分頃までということになる。

以上の各供述部分を検討するに、前記(五)について既に述べたところに引続き車内での米川と被告人の会話の状況について各調書間に食い違いがあるうえ、この間の時間についても七分から二五分までの大きな開きがあるのは不自然であり、犯行の重要な部分であり、犯人が記憶違いをする由がないと認められる兇器の準備工作の状況につき、第一、第五、第一二調書と第二、第一一調書との間で齟齬がある上、前者については、運転席の米川の横で庖丁を取り出してハンカチを巻きなおし、あるいはずらして刺突行為の準備をしたという点で不自然であり、また後者については最終的に本件兇器の種類の特定がなされた第一八調書による兇器の全長が約二二、三センチメートルであり、これを前記認定の当日被告人が着用していたとされる背広上衣の内ポケットの深さに照らせば、刃物はその先端がポケットから約三・五ないし四・五センチメートルはみ出すほどのものであり、右準備行為は被告人自身が自傷することのあり得る所作であるばかりか、二、三分間に亘ってそのような行為をやはり米川の横でなしたという点においても極めて不自然なものと言わざるを得ず、また右各調書にいう刺突行為は、これによって形成されたことになる前記認定の米川の死体にあった前胸部刺創の方向と矛盾するのであり、刺突行為後の被告人と米川とのやりとりについても各調書間に食い違いがあり、これを後記引用するところと対照すれば、第一現場、同所から第二現場に至るまでおよび同所における各やりとりとの間で順序に変動があることが明らかであるが、かかる点もまた不自然であり、さらに前記認定のとおり、米川の死は右前胸部刺創により心臓に、その余の刺創等により右肺に各創傷を負い、血液を迸出逸出したことによる失血死であるところ、これらの調書を通じてかかる創傷を負った者が、先ずその場から自分一人が逃げ出すことを考えなかった、とりわけ第一一調書によれば、米川が「交番へ行こう。」と言ったというのであるが、これらのことは余りにも不自然であると言うほかはない。

(七) 第一現場から第二現場に至るまでの状況、

第一、第一一調書には、米川は七、八〇キロの速度で西進し、笹川二丁目交差点(以下本件交差点という。)を右折し、記念橋を渡って左折し、駐在所前を通過して道路左端に停車した旨の、第二調書には、米川は七、八〇キロの速度で西進したが、被告人はそのようなスピードで走行中更に兇行に及ぶと危いと思い、刃物をつきつけたまま「悪かったな大丈夫か。」と申し向けたが、本件交差点を折れ記念橋の方に向ったので、被告人は、「これは室山の駐在所へ行くな。」と思い心配になったが、駐在所前を通過して道路左側に停車した旨の、第五調書には右第二調書とほぼ同旨の、第一二調書には米川はかなりの速度で西進し、駐在所を通過した所で停車した。その間被告人において、「大丈夫か、えらい悪い事をしたな。」と言ったが、それは速度が出ており自分が車を運転できないことから恐くて言ったものである旨の各供述部分があるが、第二、第五、第一二調書には被告人において「大丈夫か、えらい悪い事をしたな。」との発言をなした旨の供述部分があるのに対し、第一、第一一調書にはこれがなく、また第一一調書ではこれが第一現場での言葉とされているところ、その文言を発する動機において右第二、第五、第一二調書と異ること等の不自然な供述変遷が見られ、さらに、当裁判所の検証調書によれば本件交差点から記念橋南詰に至る道路は全長二〇〇メートルで、巾員約二・四メートルから約二・九メートル迄の狭隘な道路であるうえ大小三個のカーブがあり、また記念橋は全長一四メートル、巾員約二・六メートルで本件交差点から通ずる道路と約一三五度、県道宮妻峡日永線とは約九〇度の角度を有する木造橋であることが認められ、右事実に照らせば米川が第一現場から第二現場までの道路をかなりの高速で進行したとするのは不合理であり、また、仮りに後に引用する各供述部分が示すように、米川において被告人を駐在所に突き出す意思を有していたとしても、右検証調書によれば、右記念橋北詰から駐在所まで直線で二八・六メートル、同所から第二現場まで同三六・一メートルであることが認められ、前記認定の記念橋の形状、位置に照らせば米川は同橋北詰においては最徐行程度の速度で車両を運転していたはずであり、右駐在所前で停止し得なかったことは不合理であるし、また司法警察員作成の昭和五〇年四月二四日付実況見分調書によれば、本件車両は第二現場において道路左側端の癈線となった軌道と道路を画する柵から約四〇センチメートルを隔てて、これと平行に停止していたことが認められるが、前記認定の受傷を受けた米川のその際の停車の仕方としては不自然であるというほかはない。

(八) 第二現場での状況

第一調書には男がハンドルにのたれ込むようにしてぐったりしていたので、「えらいことしたな。大丈夫か。」と二回位声をかけたがやはり同様の状態であったので、これはやってしまった息をふきかえしたら、顔を見られているし危いと思ったので、無茶苦茶に突き刺し、男を助手席の方に引っぱって押し込み、自分が運転席の方に入れかわり、後で背中のあたりを四、五回突き刺した旨の、第二調書には、米川が少しがっくりした様子で、「何のうらみがあるんや。何するんや交番へ行こう。」と言って来たので、金もほしいし、顔も見られているところから、もうこれまでや相手を殺さなのがれられんと覚悟して、米川に突きかかったところ、米川は肩を押しつけるようにして手で防禦しており、殆んど元気がなくなっていたが、それでも運転席のドアの方へ手をもっていき車から出たそうにしているので、あわてて助手席に右側の足を上げ片膝立ちになり運転席の米川を助手席の方へ引張って半ば夢中になって七、八回刺し、そのまま運転席の方へ入れかわって背中のあたりを四、五回刺し、米川が動かなくなったのを見て助手席前の空間の方へ押してやったところ、ぐたっとして頭の方から落ちて行った旨の、第五調書には、米川が「なんの恨みがあるんや。交番へ行こに。」と強い語調でくってかかってきたので、顔も見られているし、もうこれまでだ、相手を刺し殺さなくてはのがれられんという気になり、頭に血が昇り、米川に突きかかったところ、同人は両手を前に出して何か助けてくれと言っていた様に思うが、逆上してしまって数回刺し、それから米川が外に逃げ様としたので、ここで逃げられたらすべてが終りだという気になり、慌てて助手席に右足を上げ米川を助手席に引張り込んで同人の右肩辺りを数回刺したところ、同人がぐったりしたので、車を運転できる人の犯行と思わせるために同人を助手席に引張り込み、入れ違いに運転席に座ったが、その際米川は助手席で前にのめる様な格好であり、ぐったりしていたが生き返られてはまずいので、更に同人の背中辺りを数回突き刺した旨の、第九調書には、米川が私の顔をにらみつけて「なにするんや。」と言ってきたこと、米川さんを助手席の方にうつ伏せにして脇腹あたりをめった突きにした時の光景が今でも目に浮かんでなりませんとの、第一二調書には、米川は「なんの恨みがあるんや交番へ行こに。」と言ってきたので顔も見られていることだし交番へ行かれてはたまったものではないという気になり、とにかく血が頭に昇りカッとなり米川を殺さなくては助からんと思い、米川が両手を前に出し、助けてくれと言っているところを数回刺し、同人が車から逃げ様としたので片膝をつく様な格好で同人を助手席に引張り込み、同人の右肩を数回刺し、ぐったりした同人をさらに助手席に引張り込み、運転席に入れ替ってさらに米川の背中を数回刺したもので、なお司法警察員作成の昭和五〇年五月三日付実況見分調書添付写真16・20・21を示された上で、そのように押し込んだ事は間違いない旨の、第一五調書には添付写真を示された上、米川が「何の恨みがあるんや。交番へ行こう。」などと言ったので、交番所へ行かれたら大変だと思い突きかかったところ、米川は肩を私に押しつけるようにして私の突き出す刃物を手で防いだうえ、その後同人が運転席ドアから外に逃れようとしたので、あわてて米川を引きずり込み、米川の右脇腹あたりをなかば夢中でめった突きにし、米川がぐったりなったのでこれを助手席側に引きずり込み、私が運転席側に移り、更に米川の背中を四、五回突き刺し、助手席前の空間に米川さんを押しこんだ旨の、第二二調書には、その録取日に実施された実況見分(昭和五〇年七月一四日付実況見分調書)の補足説明として、私が米川さんを刺し座席の位置を入れかわる時の動作は今日やったような状況であり、あのような行動で米川さんを助手席の空間に引きずり込み私が運転席に移ったのに間違いない旨の、第二三調書には、米川は多少弱っており、顔面は蒼白で、交番へ行こうという言葉も多少弱く感じたが、米川に顔を見られているし、殺さなければ金はとれないと思ったので刺した旨の、第二四調書には、第一五調書末尾添付の写真を示されて交番へ行こうと言われたため、交番へ行かれては困るので米川の右肩、右脇腹付近を刺し、同人が運転席ドアから逃れようとしたのでさらに駐在所へ行かれてはまずいと思い、引きずり込んで無我夢中で刺し、さらにうめいている米川を助手席側に押し込み、同人の背中を数回刺した旨の各供述部分がありまた、司法警察員作成の昭和五〇年七月四日付実況見分調書((一)31)の記載から、第二現場から被告人の自宅に至るまでの徒歩による所用時間を約五分間と仮定したうえで当裁判所の検証調書に照らせば、第一調書の内容から被告人が第二現場にとどまったことになる時間は、午前一一時一三分から午前一一時四五分ころまでの間ということになり、なお第一一調書ではこの時間が午前一一時三〇分ころから午前一一時四〇分ころまでの一〇分間ということになる(その余の調書では一切この時間を明らかにできない。)が、被告人が第二現場にいた時間につき一〇分間から三二分間と大きな開きがあること自体不自然であるほか、犯人であれば決して記憶違いをする由もないと認められる第二現場に到着した直後の米川の状態ないし言動につき、第一調書とその余の調書とで大きく食い違ううえ、後者についても、調書により、米川の状態につき種々異った印象を与える内容のものがあることは不自然であるというほかなく、また後者の全てに共通することとして、米川が交番へ行こうと言ったとする点で、前述のとおり不自然、不合理であり、やはり犯人であれば記憶違いをする筈がないと認められる犯行後の米川の死体の処置につき、第二、第一五、第二四調書では、被告人が運転席に移ってから米川を助手席前空間に押し込んだとするのに対し、第二二調書(司法警察員作成の昭和五〇年七月一四日付実況見分調書((一)33)も同様である)では米川を右空間に押し込んだうえで、被告人が運転席に移ったとする点で明らかに食い違いが存し、また前記認定のとおり発見時の米川の死体は、助手席前空間に同席側扉下に頭を折り、臀部がチェンジレバーに接触してうつ伏せる姿勢で発見されたことに照らせば、これらの調書の全てを通じて、それぞれ右空間に米川を押し込んだとする動作は、右事実を何ら説明し得るものでないというほかはなく、果して、司法警察員作成の同月七日付実況見分調書((一)32)によれば、同月四日本件犯行を再現した際、米川の代役は右チェンジレバーの上にその腹部が来る姿勢で右空間内にうつ伏せる状態までしか再現できなかったのであり、司法警察員作成の同月一四日付実況見分調書によれば、同月一一日に再度本件犯行を再現した際、前記発見時の米川の死体の状況を再現できてはいるものの、右再現は、米川の代役がチェンジレバーを跨ぎ越して助手席前部に腰を掛けている位置から始められたもので、これは、前記冒頭に引用した各供述部分(勿論右実況見分に基づいて録取された第二二調書も含めて)と矛盾するものであるばかりか、岡証言によれば、右実況見分時に米川の代役自らが移動しなければ前記姿勢にならなかったことが明らかであり、同証言により認められるところの、同実況見分調書は、被告人に本件犯行を再現させて写真撮影したものであるにもかかわらず、本部捜査員において陰から被告人の体を支えて撮影した写真も添付されていることおよび前記認定の被告人の行動能力に照らせば、むしろ本件車両の助手席にいる被告人が米川を刺殺したうえ、同人を前記の姿勢になるよう同席前の空間に押し込むこと自体不可能であると疑う余地も存するのであり、さらに、米川が車外に出ようとした際の被告人の咄嗟の行動について、第二、第五、第一二調書において、右足を助手席に上げ、あるいは片膝立ちになったとし、司法警察員作成の同月七日付実況見分調書にも被告人が右に相当する姿勢を採っている写真が添付されている点についても、前記認定の被告人の右股関節、右膝関節、腰椎部の障害に照らせば右写真に示された姿勢自体、被告人の右各障害部位の屈曲限界時における姿勢と認められるところ、それでもなお被告人の頭部が車両の天井につかえて前方に折れる状態になっているのであるから、被告人が時間を掛け、かつ手を用いて右足を持ち上げる等するのであればともかく、咄嗟の行動としてそのような動作をなすことは不可能であるとの強い疑いの余地の存するところというべきであり、なお、前記冒頭の各供述部分が、被告人において第二現場で米川を多数回刺したとする点自体についても、当裁判所の検証調書によれば、昭和五一年九月一日午後五時一五分から一〇分間の交通量は歩行者三名、自転車一六台、単車一四台、自動車一八台であったことが認められ本件犯行時間を考慮に入れてもなお本件犯行を見とがめる者が存しないというのは不合理というほかはない。

(九) 第二現場から被告人の自宅に至るまでの行動

第一調書には、本件車両ウインド上の鞄から現金を取り出して鞄を助手席の方に放り投げて外に出、西方の室山郵便局のところを右折し、裏通りを通って自宅に帰った旨の、第二調書には兇器は本件車両内で柄に巻きつけていたハンカチで包みなおし、背広左内ポケットに入れ、現金は右内ポケットに入れ、車から見える範囲の人通りを確かめ、幸い人通りがなかったので外に出、小走りで西方に行ったとするほかは第一調書と同旨の、第五調書には現金入り封筒を取り出したとする他は第二調書と同旨の、第一一調書には逃げた経路につき、「本当は少し東に逆戻りして駐在所の西側を左に折れて(中略)帰宅したのであります。(中略)この逃走経路については、最初西の方へ行ったと話しましたので訂正するのも気がひけたので、そのように申して来たのでありますが、刑事から間違いないのかと念を押され本当のことを話す気になったわけであります。」との、第一二調書には、鞄から封筒を抜き出して右内ポケットに入れ、庖丁はハンカチで包み直してブレザーの左内ポケットに入れ、交番の西側の路地を通って帰宅したが、それは郵便局前は人の出入が多く交番の横の道の方が人目につきにくいからである旨の、第一五調書には、前面ガラスとハンドルの間に置かれていた鞄から現金を抜き取り運転席から出ると同時に鞄は助手席の方に放り投げたもので、兇器については金を取る前に柄にまきつけた白いハンカチの血のついていない部分が表面になるようにし左ポケットにしまったが、自分が思っていたよりもあまり血はとび散ったりせず、ハンカチも相手の傷口にあたる部分だけ赤くなった程度で、手には少しついた程度であった旨の各供述部分があり、第一一調書には、逃走経路を記載した昭和五〇年六月三〇日付の被告人作成名義の図面が添付されているが、これらの全てを通じて前記認定の米川の死体が発見された時の本件車両内の状況を説明する部分が存在しないばかりか、第一、第二、第五、第一二調書は鞄を放り投げたという点において不合理であるほか、第五、第一二調書が庖丁をハンカチで包み直しブレザーの左内ポケットに入れたとする点については、当日被告人が着用していたとされる前記縦縞背広上衣一着の左内ポケット部分は勿論その余の部分についてもルミノール反応が出た形跡すら全く認められないこと、に照らせば不合理であり、なお第一五調書中の米川の出血の状況に関する供述部分は前記認定の米川の死体が発見された時の本件車両内の血液飛散等の状況と矛盾するのであり、さらに、やはり犯人であれば記憶違いをする由もない逃走経路につき、第一、第二、第五調書と、第一一、第一二調書との間で供述変遷が存するところ、第一一、第一二調書を通じて首肯し得る変遷の理由が明らかにされているとは認められないばかりか、逃走時の状況についてはむしろ第二、第五調書の方がより具体的な供述内容と見るべきであり、なお前記第一一調書添付図面については、その作成日に前記認定のとおり同日付第八調書が作成されているにもかかわらず第一一調書に添付され、なお同調書には同年六月一九日付の図面も添付されている点は不自然と言うほかなく、右逃走経路に関する図面は地形、作成年月日、名義共に黒ボールペンで記載された上に赤ボールペンで経路が記入されたものであり、本件各書添付の被告人作成名義の図面につき、これまで検討してきたところおよび前記認定の本部捜査員が執拗に高瀬ヤエ子に対し被告人の確認を試み、第一一調書作成日である同年七月三日に至って漸く自己の目撃した男が被告人に間違いないとの供述を得ていることに照らせば、むしろ右赤ボールペン記入部分は本部捜査員の誘導により同日記載された疑いを否定し切れないところである。

(一〇) 帰宅後の行動

第一調書には、午前一一時五〇分ころ帰宅し、ズボン右膝の上辺りに少し血が付いていたのでズボンだけ替え、午後零時三一分ころ八幡公園バス停でバスに乗り午後一時一〇分発の特急で松阪競輪に行った旨の、第五調書には、午前一一時四五分ころ帰宅し、庖丁をすぐ下駄箱と壁との間に隠し、ズボンの右膝の上に血が付いていたのでミシンの下に置き午後零時三〇分頃のバスに乗り午後一時頃の近鉄特急で松阪に行った旨の、第七調書には、ズボンの右大腿部に一〇円硬貨大の血が点々と七、八ヶ所ついていたので、風呂場で手を洗った時ズボンをはいたままで血の部分に石けんをつけ手でもみ洗いし、ズボンと濡れた下着を脱ぎズボンは洗った部分をよくしぼり上を乾いたタオルでふき取り、折りたたんでミシン下に置き、ズボン下は血がしみ通っていないのを確かめた上洗い物カゴに入れ、別のズボン下とズボンをはいて出かけた旨の、第一一調書には、午前一一時五〇分ころ帰宅し、刃物を下駄箱の後に、ハンカチで包んだまま隠し、風呂場で手やズボンの血を洗い落し午後零時一〇分ころ家を出、午後零時一六分発のバスに乗り、四日市駅コンコースで天ぷらそば一杯を食べ乗車券を購入したうえ、同駅前の喫茶店グランドでコーヒーを飲み、午後一時一〇分発の特急で松阪に向った旨の、第一二調書には午前一一時四五分ころ帰宅し、すぐ下駄箱の裏に包丁を隠し、ズボンの右太もも辺りに一〇銭銅貨位の血が七、八ヶ所付いていたので風呂場に持って行って石鹸をつけて洗い、ミシンの下に置き、それから松阪へ行った旨の各供述部分があるが、兇器の処置につき第一調書には何ら触れられておらず、前記認定のとおり昭和五〇年六月二〇日に被告人の自宅が実況見分されて下駄箱の表およびその裏側の板からルミノール反応が検出された後に録取された第五、第一一、第一二調書において右引用のとおりの供述部分が見られるところ、前記のとおり、右ルミノール反応は人血によるものであるか否かが確認し得なかったものであるばかりか、そもそもこれが米川の血痕であるとすれば、下駄箱については正面および上面から反応があり、側面、裏面等にはこれがない理由、板については、二ヶ所から検出されたところ、相互の距離は既に検討した本件の兇器の全長とされる長さよりも長く、いずれも同様の高さにあり、かつそれは床面から右兇器の刃巾とされる長さよりもかなり高いこと、右四ヶ所の反応は面積および形状が似ていること等の説明が困難であり、勿論これらの供述調書には、兇器を下駄箱の裏側に隠す際の具体的状況が何ら録取されていないのであり、むしろこれらの供述部分自体不合理とも認められ、また、ズボンの処置について、第一、第五調書と第七、第一一、第一二調書との間に、第七調書と第一二調書との間に、それぞれ食い違いがあることも不自然であり、自宅を出た時間について第一、第五調書と第一一、第一二調書との間に食い違いがあることも右同様であるほか、第一一、第一二調書に至って、前記古嶋千裕証言等と一見矛盾はなくなっているものの、同証言等を些細に検討すれば前記認定のとおり、本件犯行当日の正午前後ころ仮りに被告人が帰宅しておれば、右千裕はこれに気付いたはずであり、結局これらの調書はいずれもその意味において不合理であり、さらに前記冒頭の各供述部分がズボンに血痕が付着していたとする点については、当日被告人が着用していたとされるズボンから(第七調書中の供述部分のとおり、その後二回クリーニングに出されているとしても)ルミノール反応が検出された形跡すら窺えないことに照らせばやはり不合理というほかはない。

7、兇器の処置

被告人の検察官に対する弁解録取書には刃物は家の便所に捨てた旨の、第五調書には、一週間位後にハンカチごと新聞紙に包み四日市西日野寄りの笹川通りのカーブ辺りに捨て、さらに一週間後同所に行ったところ、まだ捨てた場所に庖丁があったので持ち帰って今度はタオルに包んで自宅の便所に捨てた旨の、第一二調書には、昭和五〇年四月一日ころ家の雑飯等を入れるポリ袋の中に入れて玄関の前に出しておいた旨の、第一八調書には、ポリ容器のくず入れに捨てた旨の、第二三調書には、勝手場に置いてあったポリ袋の中へ入れ外に出しておいた旨の各供述部分があり、木田証言、岡証言によれば被告人は当初単に川に捨てた旨の供述をなしていた事実が認められるところ、これら各供述は第一二調書と、第二三調書とが符合する他は全て異なる内容のものであり、仮りに被告人が当初兇器の発見を恐れて虚偽の供述をなしていたとしても、第一二、第二三調書と第一八調書との食い違いは不自然であり、なお第一二調書については、前記の捜査報告書によれば本件捜査員は四月一日以降の被告人宅付近のゴミ収集日は一番早い日で四月三日である旨の聞き込みを得た事実が認められ、仮りにこれが真実であるとすればゴミを入れたポリ袋をその二日前の朝に屋外に出したとする点とりわけその中に重要な証拠物件となる兇器を入れていたとする点において余りにも不自然であるといわざるを得ない。

8、ミスタースリムについて

第二調書には、第一現場の車両内でミスタースリム二本位を吸ったが、これは昭和五〇年三月末ころ喫茶店グランドで野田品子から一四・五本入り一箱をもらい茶ダンスの整理戸棚に入れてあったものである旨の、第五調書には右譲受けた日を同月二〇日とし、保管場所が欠ける他は第二調書と同旨の、第七、第二三調書には第五調書と同旨であるほか、さらに自宅テレビ横の整理ダンス上部左側の書類の入れてあるところに保管した旨の、第一二調書には、第五調書と同旨であるほかさらに自宅テレビ横茶ダンス西端の書類入れの上に置いた旨の、第一三調書には、米川の車中では二本しか吸っておらず米川にも勧めていない旨の、第二二調書では取調官から「三本出ているがどうか。」と誘導されたうえ、「はっきりとは覚えておりませんが二本吸っただけだと思うのです。後の一本は吸ったかどうか覚えておりません。」との各供述部分があるが、ミスタースリム喫煙状況についてこれらはいずれも前記認定の本件車両内から吸殻三本および新しいもの一本が発見されている事実と矛盾し、さらにその保管場所につき、第七、第二三調書と第一二調書との間に食い違いがあることも不自然である。

9、臟金の使途

被告人の検察官に対する弁解録取書および第五調書には、生活費、妻の入院費、競輪に全部費消した旨の、第八調書には、昭和五〇年三月三一日に一〇万円、同年四月一〇日に一五万円、同月一一日に一五万円、同月一二日に二〇万円各競輪に残額二五万円については生活費に五万円、病院代にも五万円、小遣銭に一五万円各費消した旨の、第一一調書には第八調書とほぼ同旨の、第一四調書には三月三一日に九万円、四月一〇日一八万五千円、四月一一日一七万二千円、四月一二日一九万八千円計六四万五千円を競輪に費消した旨の各供述部分があるほか、第一七、第二一、第二四調書には、右金八五万円を含めての本件犯行当時の被告人の金銭収支の状況が記載されているが、前記引用にかかる動機と臟金の使途との矛盾につき何ら首肯し得る供述を伴っていないこと、すなわち第八調書によれば、「その様な借金の返済に当てればすぐ足がつくと考え、私はこれら借金やその他の支払に当てず、大半を競輪で使ってしまったのであります。」と、第一一調書では「借金はいつでも返せると思っていたし、取った金を使うと変に勘ぐられるような気がしたからです。」と、第一七調書では前記3引用部分に続き「ですが事件によって得た金は八五万円であり、また警察の捜査が始ったので、その金は足がつくと思い、思うように使うことが出来ず」とそれぞれあるのみで第一一調書は論外であるとしても、第八、第一七調書においてすら、借金の返済に迫られて犯行に及んだ犯人であれば経験したはずの、本件犯行後事件の重大性に気付き、苦慮したうえ、競輪に費消せざるを得なかった、あるいは大金を入手して派手に競輪に掛け、大半を費消してしまった後に味わった後悔等の心情については何ら触れるところがないのは不自然というほかなく、また第一七調書の右供述部分については、本件犯行当日被告人は松阪へ向う電車内で臟金を数えたとすることなどに照らせば、本件捜査開始前しかも臟金を数える前に既に競輪場に向い、多額の金員を費消している点、また前記引用のとおり、第二、第五、第一二調書では本件犯行に及ぶ際被告人が米川が一〇〇万円位持っているものと考えたとされることは、金一五万円の差があっただけで、しかも村上には借金を全額返済できるにもかかわらず右供述部分にはそのようなことを考えたともされていない点および益川には本件犯行当日の夜半借金の返済を求められた際その一部を返済できたにもかかわらず、現にこれをなしていない点とそれぞれ矛盾するのであり、第一四調書には、四日間に亘る競輪費消状況は一レース毎に詳しく記載されており、第一九、第二〇調書はこれを補足訂正するものであるが、前記の捜査報告書によれば、第一四調書作成日より前に、被告人に示す目的で右四日間の全レースの組合せと、同年四月一二日を除く関係全レースの成績を記載した資料が収集されていることが認められるから、これらの各供述部分は全て記憶に基づかずしても供述しえたものというほかはない(なお被告人の金銭出入状況を詳しく録取した第二一、第二四調書についても、その内容自体から本部捜査員の誘導によるものであることが明らかな供述部分を多く含むほか、第二一調書で訂正された部分が第二四調書では放置されたままになっている等の不自然な点が認められるのである。)。

10、その他

本件各書証については、既に指摘した多くの問題点が存するほか、ここで具体的には検討をなさなかった本件犯行と密接な関係を有しない事項についても種々の供述変遷が認められ、またこれらの各書証に共通する恐喝の企図から詐欺、強盗傷人、強盗殺人へと変化していく犯意の流れに伴う被告人の心情については、人を納得させるに足りる供述が皆無に等しく、さらに通例自白調書の末尾に掲げられる反省悔悟の情に関する供述部分も、総じて簡に過ぎ、むしろ取って付けた印象を免れ得ないものにとどまるのである。

第三、当裁判所の判断

一、はじめに

甲被疑事実について逮捕、勾留中の被疑者を、乙被疑事実について取調べることは、被疑者に出頭拒否および退去の各自由が実質的に確保されている場合(以下このような状態での取調べを任意取調べという。)においては勿論、かかる自由を奪う場合(以下このような状態での取調べを強制取調べという。)であっても、両被疑事実の間に一定の法律上、事実上の関係があり、かつ取調が一定の範囲、限度内にとどまる場合には、必ずしも法が一律にこれを禁ずるものとは解せられないが、乙被疑事実についての取調べが、右各許容される場合にあたるか否かは、刑事司法による正義の実現が、刑事司法における正義の実現と不即不離の関係にあることから要請される適正手続の保障原理の下で、人権保障を貫き、不当な強制捜査を排除するため、厳格な司法的抑制を要求する令状主義の建前や、右抑制を徹底するために、勾留の及ぶ範囲をその基礎となった被疑事実を基準に画そうとする事件単位の原則の見地から、個個具体的な場合毎に、その実情に即して慎重に判断すべきである。

そして、仮りに、右許容限度を越えた取調べがなされた場合には、刑事司法による正義の実現を、刑事司法における正義の実現と共に危うくするものとして、当該甲被疑事実による逮捕、勾留中に録取された自白調書の証拠能力を否定されるものというべきであり、さらに、乙被疑事実による逮捕、勾留中に録取された自白調書についても、少くとも実質的には前後の身柄拘束を一個と見ることができ、当該被疑事実による逮捕が右のとおり証拠能力を否定されるべき自白調書を被疑者と犯人とを結びつける唯一もしくはこれに準ずる重要な疎明資料としてなされたものである場合には、右同様の理により、証拠能力を否定されるというべきである。

二、別件勾留中に録取された本件についての自白調書の証拠能力

1、強制取調べの許否

以上詳述してきた別件捜査の経緯と状況のもとにおいては、別件による勾留状に基づき、被告人に対し強制取調べを行い得る範囲が、犯行の動機、市川辰代に対する欺罔および小切手一通の交付を受けた行為それ自体のほか、右に付随する限度における犯行当時の被告人の資力ないしは金銭出入り状況に及ぶことは勿論、別件逮捕、勾留の極く初期に被告人において進んで自白したところにより判明したとみられる川喜田良一、益川文一に対する同種余罪についても、右の限度で及ぶことは肯認され得ると解せられるが、いかにそれが重大な兇悪事件であり、動機を形成した原因につき共通し、社会的事実として、余罪と極く一部において重なる部分があるとは言え、右の範囲と限度とをはるかに超えて、右付随事情の名の下に、別件および余罪とは、日時、場所、罪種、罪質を全く異にする本件についてまでも、あたかも逮捕状、勾留状が発布されたと同様に被告人に対して強制取調べに及ぶことは許されないものというべきである。

2、任意取調べの成否

そこで、別件勾留中の被告人の取調べが任意取調べにとどまるものであるか否かにつき検討するに、以上詳述してきた本件の具体的事実を総合すれば、

(一) 本部捜査員は、本件と被告人を結びつける何らの直接証拠も状況証拠も存しないにもかかわらず、被告人を本件の有力容疑者と専断し、令状主義を潜脱して本件につき不当な見込捜査を遂げる目的で、被告人の身辺を捜査し別件を聞き込むと、渋る被害者に対し執拗な説得を加え、昭和五〇年六月一〇日被害届の提出を受けるや、その日のうちに右容疑の裏付捜査を殆んど完了して四日市簡易裁判所に逮捕状請求をなし、その発布を得ていること、

(二) 本部捜査員は、同月一一日早朝被告人を別件により逮捕し、その際逮捕現場における捜索の名の下に本件捜査に必要な証拠物を捜索して領置し、被告人に対する別件についての取調べは簡単に行っただけで、翌一二日には、被告人を検察官に送致し、検察官は同日四日市簡易裁判所に勾留請求をなし勾留状の発布を得、その執行がなされ、本部捜査員は、以後同月一四日正午ころから所定の方針通り、被告人に対する本件についての取調べを開始したが、同月一一日以降同月一四日までの間にも本件と被告人を結び付ける証拠は収集されず、右黒靴についての鑑定人から本件足跡は黒靴で印象されたとみても矛盾はない旨の報告を受けたにとどまるものであったこと、にもかかわらず本部捜査員は被告人が最有力容疑者であるとの強い予断を有していたこと、

(三) 本部捜査員は、そのころ被告人に対すると同様に、本件の容疑で取調べをなす目的で、A、Bをも見込み逮捕し、前者については厳しい追求がなされ、違法な自白の強要がなされていること、

(四) 本部捜査員は、同日被告人に対してその承諾もないまま突然ポリグラフ検査を行ったものでこれは黙秘権の侵害に他ならないと認められること。なお同検査では、判定不能の結果が出たにもかかわらず右検査に引続いて被告人に対する本件についての取調べが行われたが、その際本部捜査員は、事件単位の原則を忘却し、勾留中の被疑者に対しては余罪全般につき強制取調べをなし得ると理解しており、被告人において本件については出頭拒否および退去の自由があることを知る由もなかったこと、

(五) 以来、被告人に対し、連日朝から晩まで長時間の取調べが行われ、同月二一日被告人を本件により逮捕するまでの間の本件についての取調時間は実に約五三時間三五分に及ぶが、この期間に別件および余罪の取調に当てられた時間は約五時間一〇分にとどまるものであること、

(六) 被告人は当初本件について否認していたところ、同月一六日に至って一時期自白をなしたが、その内容は明らかに真実と合致しないもので、本部捜査員による追及を受けて、再び否認に転じていること、

(七) この間の取調場所は、同月一四日正午ころまでの被告人に対する別件および余罪の取調べに使用された通常の取調室ではなく、他の用途を持つ、外界に接する窓のない陰気な印象を免れ難い一二畳敷の和室であり、取調べは、本部を事実上指揮する木田警部、その直属の部下たる岡警部補が中心となり、常時四名以上が参加して行われ、その際被告人は部屋の奥の窓下に坐らされ、その近くを取り巻くように取調官が坐り、取調べの内容は取調官において厳しい言葉や被告人の肩に手をかけてゆするような行為をなすというもので、発問の内容も実質的には自白を促すことに終始していること、

(八) 被告人は、同月二一日には、微熱と捲怠感により医師の治療を受け、感冒および疲労と診断されているほか、それまでの間にも不眠や食欲不振を訴えていたことがあること、

(九) 被告人は、身体に障害を持ち、畳の上に坐る場合には、不安定な坐り方しかできないばかりか、その座り方も制約され、また通常人に比し疲労度は相当大きく、苦痛も伴うのであるが、本部捜査員は、これを熟知しながら右(七)の取調べ場所を選んだものであり、かつ被告人から苦痛を訴えられながら、特段の配慮をなした形跡もなければ、右取調場所も本件についての全取調期間に亘って変更していないこと、

(一〇) 被告人の自白の裏付け捜査も参考人に対し、執拗にかつ誘導あるいは誤導までも伴って行われており、またかかる捜査の後に、被告人の自白を補強するものとして当裁判所に提出された書証、人証は、ことごとく本件と関連性がないか証拠価値の低い、あるいは被告人の自白と矛盾する等の内容のものであり、したがって自白の内容には証拠に裏付けられた、いわゆる秘密の放棄とみられる部分が存しないこと、

(一一) この間に作成された第一、第二調書は、自白の動機・犯行の動機、企図から本件犯行に至るまでの間の心の動き、本件犯行に対する悔悟の念等について、犯人であればこそ供述できると思われるような第三者に訴える内容を持つ供述部分が存せず、また動機として述べるところが、他の証拠と矛盾するのを初めとして、供述内容の全般に亘り、多くの不自然、不合理な点が存するほか第一調書については、自白時に被告人の態度に特段の変化がなく、また重要な供述部分たるべき本件の臟金に関するものが、むしろ取調べ官から真実に反し虚偽と断定された同年六月一六日の自白と類似しており、この二つの調書の相互間において、犯人であれば記憶違いをなすことはあり得ないと考えられる第一現場における犯行直前の兇器の準備の状況から第二現場における犯行の状況に至るまで、大きな供述の変遷が認められ、また、前記のとおり、本件犯行の大筋については、第三調書以下の本件各書証と一致しているものの、その細部に亘って対比すれば、殆んど大部分に亘って大小の供述変遷を遂げていること等の諸点を指摘することができ、これらの諸点および後記三につきさらに付加して指摘する諸点を彼此勘案すれば、この間に作成された各自白調書につき自白の強要に基くものとして、自白の任意性についてすら疑いを挾まざるを得ないことは明らかであり、ましてこの間の取調べが任意取調べにとどまらないことは余りにも明白である。

3、自白調書の証拠能力

以上のとおりであるから、別件勾留中に録取された第一、第二各調書は、いずれも違法な強制取調べにより収集された証拠として証拠能力が否定されると解するのが相当である。

三、本件逮捕勾留中に作成された本件各書証の証拠能力

1、以上詳述してきた本件の具体的事実を総合すれば、まず別件勾留と本件逮捕勾留との関係につき

(一) 別件逮捕勾留は、当初から本件についての被告人の自白を待って本件逮捕、勾留に切り替えることが予定されていたこと、前同月一八日本件についての逮捕状が発布されていたが、別件の勾留期間満了に至って漸く本件の逮捕に切り替えられており、被告人は通算して計二九日間本件についての強制的取調べを受けたことになり、刑訴法の定める勾留期間の制限も徒過されていること、

(二) 右逮捕状の請求時においても、被告人と犯人とを結びつける疎明資料としては第一調書しか存在しなかったこと、

(三) 本部捜査員によるこの期間の被告人に対する本件についての取調べも前記二2(五)に引き続き、同年六月二九日を除く連日に亘って、殆んど朝から晩まで行われており、この取調べ時間は合計約一二三時間八分であり、なお検察官による右の取調べ時間は合計約二三時間一〇分で、この期間内に被告人に対する別件および余罪の取調べにあてられた時間は、約八時間一七分(取調官は全て検察官)にとどまるもので、右本部捜査員による取調べは、同(七)と同一の取調場所で、木田警部が退席し、岡警部補が中心となって取調べが行われることがあったほかは、同一の取調官により、同一の姿勢で行われ、被告人は、この期間においても同年六月二二日、同年七月二日、同月一〇日の三回に亘り、全面否認に転じており、その他自白内容の矛盾点等についての取調官の発問に対する答に窮し、一時否認に転ずることもあった(なお、被告人は起訴後一貫して犯行を否認している。)が、そのような時の被告人に対する取調べの具体的状況も概ね同(七)と同様であること、

(四) 被告人は本件により逮捕される直前の同年六月二〇日、弁護人を選任したが、同月二四日には接見禁止に付され、検察官において一般的指定を行ったため、同日以降本件起訴に至るまでの間、弁護人と接見し得たのは計四回合計一時間二〇分に過ぎず、右一般的指定の当否についてはさて置くとしても、右接見が、以上の取調べの被告に対する影響を防止し得べきものであったとは到底考えられないこと、

等の諸点を指摘することができ、またこの期間に作成された本件各書証の内容に関しても、

(五) 第一、第二調書との間で前記第二、六1において指摘したとおりの関係が認められるところ、この期間に作成された本件各書証についても第三、二2(一〇)に指摘したところがあてはまるほか、第一、第二調書につき同(一一)で指摘したと全く同様に、犯人であればこそ供述し得ると考えられる、第三者に訴える内容をもった心情に関する供述部分が存せず、供述内容の全般に亘り、多くの不自然、不合理な点が存するほか、本件各書証の相互間および第一、第二調書との間において、殆んど全般に亘って、犯人であれば記憶違いをする由もないと認められる部分も含めて、大小さまざまな変遷を遂げていること、

(六) この期間に作成された本件各書証には、一見して明らかに本部捜査員らによる不当な誘導あるいは誤導によるものと認められる供述部分が存するほか、右供述変遷部分については、前記認定の本部捜査員によって収集された各裏付証拠の収集経過および内容に照らせば、これらの証拠に基づく不当な誘導あるいは誤導によるものとしか理解のしようのないものが存在すること、

等の諸点を指摘することができ、これらの諸点および前記二2につき指摘した諸点を彼此勘案すれば、先ずこの期間に本部捜査員らにより作成された本件各書証については、前同様に自白の強要に基づくものとして、自白の任意性についてすら疑いを挾まざるを得ないのであり、なおこの期間に作成された検察官に対する弁解録取書、各検面調書および勾留尋問調書についても、前記詳述した具体的事実に照らせば、右捜査員らによる右違法な取調べの影響を遮断できるに足りる事情が存しなかったと見るべきことは言うまでもないから、やはり自白の任意性についてすら疑いを挾まざるを得ず、さらに本件逮捕勾留と別件逮捕勾留とは実質的には一個の身柄拘束と見ることができ、また前者は、後者により録取された第一調書を被告人と犯人とを結びつける唯一の疎明資料としてなされたものである(なお司法警察員作成の昭和五〇年七月四日付、同月七日付、同月一四日付各実況見分調書は、立証事項、実況見分の目的およびその内容に照らせば、いずれも被告人の現場供述が主たる証拠資料とされ、あるいは現場供述と現場指示とが一体となり、分離が著しく困難なものであるから、これらの証拠能力については、自白調書と同様の要件を満たすことが必要であると解せられる。)ことは明らかである。

2、自白調書等の証拠能力

以上のとおりであるから、本件逮捕勾留中に作成された本件各書証もまた、いずれも違法収集証拠として証拠能力が否定されると解するのが相当である。

第四、結論

以上の次第であって、検察官から取調請求のあった本件各書証は、いずれも証拠能力がないと認めるので、いずれもこれを却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 橋本達彦 裁判官 川原誠 裁判官 四宮章夫)

〈以下省略〉

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